先生と夏休み

TOV先生フレン×生徒ユーリ

2014年に頒布した同人誌の再録です

お手に取ってくださった方々

ありがとうございました。

 以前私には秘密の愛があり、左れは時が去っても去っても長い月日を経ても心の中で生きておりました。けれど秘密の愛はすぐに、閉じこめられてゐることに我慢できなくなつて了ったのです。

 

 

 嘗てアカデミー主題歌賞を獲得した、ジャズソングの詩を、ふと思い出しました。

 一粒のキャラメルから丁寧に身包みを剥いで、さうして夏の若い四肢の様な伽羅色を渇いた口に放り込む時の罪悪感ときたら。行き詰まった仕事、疲れには糖分だと聞いた私は、閉じ込めた口内の甘い毒を噛み締めもせずに舌で転がすだけなのです。

 この疲労を癒せるのは糖分でも、愛らしい子猫でも、きっと薄味の暖かなハーブティーでもないのでしょう。

 夏の陰湿な風に巻かれて、この脆弱な身体は空に散らばり、すぐ上の青色に吸い込まれて、少女が差した白い日傘の上で、容易に砕けてしまうくらいにまで草臥れていたのですから。

 紐で綴じた帳面を瞳と同時に閉じるのです。疲れてしまいました、ねぇ、後でもいいでしょうか、誰かの許可を期待する訳でも無く私は問います。

 老眼鏡に變わるのもそろそろだと貴方に笑われた、恥ずかしげな分厚いレンズの眼鏡を外して部屋の畳の上へ甘える様に転りました。

 思考が動かない理由も、原因も分かっていたのです。けれど聲に出すのは億劫で、貴方との関係は仕事とは割り切ろうと決め込んでいた筈なのに。結局、自分を早速裏切る事となっているのですけれど。

 けれども、押さえつける事が出来なかった。

 

 会いたい。

 いつも、貴方の傍にいたい。

 静かな部屋で、眠るだけでも良い。

 手を繋いでもと問うて、困らせるのは私の特権。

 瑠璃のやうな瞳が、私を映して揺れるのです。

 

 年甲斐もなく、貴方がただただ愛おしい。

 

 本気になれば成る程何もかもが怖くなるのはどうしてでしょう。失敗すること、想像すること、願うこと。あの時どうして貴方に云って了ったのだろう、どうして貴方は拒まなかったのでしょうか。私達の関係は何なのだと、貴方はお思いでしょうか。

 適当に捲ったアルバムの一ページに、笑った貴方が写っている写真を見つけただけで自分の世界の中心が分かってしまうような、そんな私の愚直な部分も、本当は嫌いでは無かったのです。

 これから先のアルバムにも貴方の笑顔が一枚でも多く写っていますようにと誰に願いましょうか、適当に家の近所を、散歩し乍ら探すような浅い付き合いでも別に悪くなかったのですけれど。

 貴方が抱く不安も怒りも、悲しみにも私が関わっていたい。

 笑顔の先にも怒った顔の先にも泣き顔の先にも、気持ちよさそうな蕩けた顔の先にも――若くて美しい貴方には不釣り合いな醜い大人が、ずっとずっと傍にいますようにと。

 お慕いしております、愛しているのです。誰もいない部屋で唇だけを動かして囁きました。

 

 これは、誰に願えばいいのでしょう。

 散歩するのでさえも、ためらってしまいました。

 

 

 まるで始めて戀をした子供みたいだと、口元に笑みが浮かびます。それは自嘲なのか、戯けなのか、それさえ私には、見当も――

 

 

 紙を千切り、丸めた音だけが聞こえる。

 

 

 

      先生と夏休み。

 

 

  1

 

 

 大学生の頃、僕には戀人がいた。

 彼女は僕を可愛がってくれていた教授の元教え子で、副手としてやって来た。それが、出會いだった。

 初夏に染まり始めた空の下。蒸し暑い空気を少しの埃と水の臭いがする古い冷房が冷やし、蝉の聲が遠慮がちに聞こえる二人きりの研究室。何が切っ掛けだったかは余り覚えていないけれど、当時はまだ若かったの一言で、ここは片付けるとしよう。

 今思うと、僕らは戀人とか、そういう甘やかなものじゃなかったのかも知れない。

 まだ成人したばかりだった僕は自分の未熟さや不甲斐なさに焦り、執拗に年下扱いを嫌がっては、デートの前日なんて予約した店への道のりを何度も下調べしたり、彼女がヒールを履いて来る事を想定して、足が痛くならない様にタクシーを呼ぶべきかなんてまで常に考えたりもした。

 周りから見ても見劣りしない様、少し背伸びをした服を揃え、煙草を覚え、苦手だった酒に慣れてみたりと。

 それはもう、精一杯の背伸びをしたものだ。

 けれど、僕をそうまでさせていたのは、彼女への愛なんかじゃなかった。

 彼女の事は好きだった。それは嘘じゃない。勉学に時間を費やし乍らも、お互いの支障にならない様にして顔を會わせる瞬間。父を亡くしてから高校生の時に母までをも亡くして、誰も何も知らない地に一人で上京した僕にとっては、色んな事を教えてくれる彼女は唯一弱音を漏らす事も出来る人でもあった。

 彼女にも幼い頃に父と母が離婚して、寂しかった幼少期があると語ってくれた。

 傷の舐め合いみたいに寄り添って、それでもいいと思っていた。セックスだって何だって、相手に誘われたら不慣れな部分も、昔から持ち合わせてた覚えの速さでカバーしてそれとなくこなしたし、ちゃんとお互い満たされていたとは思う。

 でも、確かに、何処か作業的ではあった。

 こうしたら良いんだろうとか、気持ちいいんだなと、頭で考え乍ら相手の表情や聲を聞いて身体を動かして。それなりの性欲も自分にはあった筈なのだが、自分は何処までも消極的だった。

 彼女に尽くしている事で、喜ばれて、笑顔を見る度に心が軽くなった気がした。

 而して心が軽くなるのと同時に、胸が締め上げられる様な感情に蝕まれて戸惑う事も屡々。

 誰宛ての感情なのか、答えは薄らと分かっていたけれど、それを明確に記す覚悟も無く。

 心に引っ掛かりを抱え、取り払う方法さえも見つからないまま。一年が経ち、二年も過ぎた。

 

 そうして電話越しに「あの子に代わろうか」と女将さんの気遣い。少し苦く笑って、いや、もう遅いのでと断った事何十回。いつまでも後回しにしてると辛いのは、自分なのに。

 そう、と女将さんが静かに云って、アンタも不器用だねと笑って、僕も釣られて笑った。

 綺麗な記憶の中にいるあの子は、もう中学生で、僕のお下がりの制服を着ていると聞いた。携帯に送ってもらった、大きくなったあの子の写真。入学式には来なくていいと女将さんを拒んだ様で、写真は家で制服のサイズを合わせた際に撮ったものの様だった。

 小さな画面に映る、荒い画質越しの垢抜けない子供。それでも、顔つきは何処か大人になってしまっていた。

 昔と變わらない切れ長なのに大きな目、真っ直ぐの黒髪や、写真が苦手で顔を顰めてしまう癖だって。

 僕が故郷に置いて来た、目に入れても痛くない宝物。

 ここに来て色んな人に「兄弟はいるか」と聞かれた。両親の事もあって、相手に気を遣わせるから家族の話をするのは少し苦手だったけれど、その質問だけは笑顔で答えれた。

 ――弟がいます。

 少しの嘘。でも、僕には、あの子しかいなかったから。

 聲變わりをした君の聲が聴きたい。何処かの誰かさんみたいに、子供扱いを嫌がる小さな頭を撫でて、拗ねた君の機嫌を取りたい。

 僕にはもう小さくなった服を、いつか大きくなった君の為にと女将さんに渡したけれど、僕の服の趣味じゃ今の君にはきっと似合わないだろうから。車で色んな店に連れていってあげて、帰りに何かを食べたりして。

 嬉しそうな君を見たかったなあと、平らな携帯の画面に映っている彼の頭を撫でた。

 どうしてあの時、あんな別れ方しか出来なかったのだのだろう。二階の窓からこちらを見る、泣きじゃくった君の顔が僕の記憶からいなくなってくれない。あの時、部屋まで駆け上がって、抱き締めたら良かったと。

 沢山の涙の痕をつけた、滲んだ手紙をくれた君。勇気のない僕でごめんねと何度謝ったらいいのだろう。

 大きくなった君と薄手の上着に身を包んで、寒い寒いと笑い合い乍ら秋の夜空の下で散歩したり、冬には地元の小さな神社へ初詣に行って、ご近所へ挨拶回りをして。

 春には桜を見に隣町まで行こうか、夏には昔みたいに花火が見たい。

 どれもこれも、友達や彼女と行くからと云って、もう僕とは行ってくれないだろうか。

 それはそれで幸せなのかも知れない。僕が知らない所で少しずつ、君は大人になって行くんだろう。

 また會ったら、昔みたいに。それは意気地なしの僕の我が儘。僕は今でも、君の兄でいれてるだろうか。僕の傍で大きくなって欲しかった。それを突き放したのは少し前の僕で、拒んでいるのは今の僕なのだ。

 心に出来た隙間を彼女に尽くすことで忘れて、楽になっていたのだ。このまま誰かと結婚して、数年ぶりに故郷に帰って、そんな再会になっても、君は僕を。

 

『私ね、結婚するの』

 

 二人でよく通っていた静かな喫茶店で、俯き乍ら話す、彼女の長い睫毛を眺めていた。

 大学卒業も間近、伝えられたのは「さようなら」よりも滑稽で、馬鹿げた言葉だった。

 聞くと彼女には僕の知らない男との、以下省略。

 僕の子じゃないのか、とは聞かなかった。彼女と最後に関係を持ったのは就活を始める前。一年よりも前のことだったし、薄い隔たりで避妊をしなかった事は一度もなかったからだ。

 寂しかったの、こんなつもりじゃなかったの、言葉を並べる彼女の前で、僕はこんなに外が晴れているのなら洗濯物を干してくれば良かったと、味の薄い紅茶を啜って指の甘皮を剥がす。

 決して、この野郎、と思わなかった訳では無い。

 時間が無くても無理矢理作って、會ったりもしていた。

 彼女は僕を待つと云うて、そんな少しだけの逢瀬でも構わないと頷いていた。分かってくれていると思っていたのだ。君は隣で見てくれてるものだとばかりに。

 彼女からしてみれば僕への裏切りは寂しさを埋める少しの過ち程度で、その原因は僕にあると信じて疑わず、挙げ句の果てには己のした事を正当化させる気なのだろうと考えると、その荒唐無稽な発言に憤る事さえ馬鹿らしくて吐き気までしてくる。

 目の前で震える彼女が、数秒前まで大事だった人が、砂糖が紅茶に溶けていく速度よりも速く、どうでも良い存在になって行くのをぼんやりとこの身で実感する。

 腹は立ったが不思議と、何故か自分でも驚くほどに傷つかなかった。

 相手の男を殴ってやろうとも、見たいとも思わない。彼女が幸せになろうと、不幸になろうとも。

 道に咲く雑草が踏まれる事よりも興味がなくなった、と云ったところか。

 人はこれを聞いて僕を酷い男だと罵るのだろうか。けれど、僕以外の僕の知らない男に、僕に黙って愛されて、ほくそ笑んでいたかも知れない様な女性に慈悲を抱くのは、舌を突き出したまま天に唾を吐くよりも難しい事であった。

 母が死んでしまって、ほんの一年かそれくらいの期間、僕は精神的なぐらつきからか矢鱈と衛生面に関して神経質になっていた。

 一度使ったシャープペンシルは拭いてからでなければ清潔なペンケースにしまえないだとか、階段の手摺りには爪でしか触れられないだとか。一部の人に比べればかなり軽度な症状だったとは思うが、それは“物”に対してだけだとばかりに。どうやら、人へのそれも同一らしい。

 然し今となっては、そのぐらつきも治った筈だったのだが。

 君はまだ若いから、まだ未来があるから、こんな私には勿体無い――エトセトラ。放たれる言葉の一つ一つに重力なんて感じるものか。自分だって、貴方と結婚しようなんて一度も考えた事はなかったと、笑いそうになるのを必死に堪えた。

 そうして嗚呼だこうだと言い訳を聞いていて、眠たくなった頃、そろそろ家に帰りたくなった僕が一応云っておこうかと口を開き、「おめでとう」と告げた時の聲は反射的で、中身のない、機械的なそれであったのだ。

 それから彼女の事は知らない。結婚式にも呼ばれなかったし――呼ばれたら呼ばれたで、脳の血管が幾つか千切れていただろうが――それに僕が大学を卒業したのと同じ年、彼女は寿退職したそうだ。

 どれもこれも聞いた話。

 そんなこんなで色々あった、大学時代の青臭い思い出。時間とは、倒したコップから溢れる水よりも勢いを加速させ、勝手気ままに流れてゆく。

 身の回りが落ち着き始めた頃、バイト先で仲良くなった友人二人にやっと彼女と別れた事を、笑い乍ら酒を飲んで零した。理由は流石に、彼女のプライバシーもあるから濁したのだが、何かを察したらしい友人達は黙って頷き、今日は俺達が奢ってやるよと僕の肩を叩く。笑って「もう随分前の事だし」と、自分もグラスに口を付けた。

 然し、一人の友人が、僕の様子を見て何かの確信を得たかのように口を開く。

『でもさ、アンタ前からあの人の事そこまで好きじゃなかったじゃん』

 鳥のつくねを一本大皿から取って、箸で自分の小皿に串から実を抜きつつ、思わず「え」と聲が出る。

 人に指摘され、数秒。そうだっただろうかと頭を抱えると、もう一人の方も深く頷いて見せた。

『あの人のこと話してる時も惚気てるって云うより、近状報告みたいな? お前自分から話さなかったしさ』

『俺らが聞くから答えるって感じ』

『上京するときに彼女でも置いて来て、その子にまだ未練垂らしてんのかもなって俺らは勝手に推測してたけど』

 言葉を挟もうとした僕の聲を遮って、勝手な推測を並べる二人に目が乾き、瞬きが増える。

 自分に戀人なんて、確かに高校生の頃数ヶ月だけ付き合った相手はいたけれど、たった数ヶ月だ。高校中の噂になって、僕は特に気にはしなかったが彼女から「周りの目が怖い」とだけ告げられて振られたのだ。思い返せば振られてばかりである――そう、自分は今までの相手ともそんな深い関係にはならなかった筈だ。違うとこを見ていた、と云われても何処なのかも検討も。

 気のせいだろう、そうして首を傾げて箸を置き、酒をまた一口。喉を焦がすようなアルコールの旨さも漸く分かってきて、今夜も脳に染み込むのをジっと待っていた。鼻から抜けるような酒の味に視線を遠ざける。

 すると、ふと、何の前触れも無く自然と記憶に蘇ったのは、小さな背中だった。

 危ないから駄目だと何度云っても、バス停のベンチで、その子は僕の帰りを待つのをやめなかった。

 バスから降りて来た僕の腰にしがみついて、勝手に待っていたくせに「おそい」と怒って。

 まさか。

 ――僕って、そんなに上の空だったか?

 戀人なんかじゃないが、たった一人の、大切な子の存在。けれど、戀人の話をする時に思い耽った表情で見つめるような相手ではない。

『上の空つうか……パスタ食ってるけど本当は白ご飯食べたい奴の顔』

『話すときは彼女のこと見てるのに、話した後すぐ違うとこ見ちゃってたな。俺でも分かるんだ、当事者の彼女さんはもっと感じ取ってたはずだぜ? まぁ何があったにしろ俺はおまえの味方だけどさ。思い当たること有るんだろ、顔に書いてる』

 あの時ほど狼狽えた時があっただろうか。

 思い当たる人はいる。けれど、それはかなりアウトな回答なのではなかろうか。面白がって誰だ誰だと聞いてくる友人の顔に、明らか動揺した様な聲でなんでもないと繰り返した。

 

「――大丈夫?」

 

 蒸し暑い夜、タイマーをかけていたエアコンは知らぬ間に消えていた。

 汗を掻くのも厭わず、最近變えたばかりで藺草の香りがする畳の上に敷いた薄い布団が、自分達の身じろぎによって皺を増やす。

 組み敷いた身体は思いの外細かった。既に中に入ってる二本の指で濡れた肉を掻き分けるように、最近漸く感じ始めた凝りの部分を指の腹で押し潰すと既に草臥れた様な性器からトロトロと力なくカウパー液が溢れるのを眺め、同時に咥内に唾液が溜まっていくのを実感する。

 ふやけた指を抜き、彼本人の精液を指に絡めて潤すと戦慄く後孔にゆっくりとまた沈めていった。

 指の僅かな動きにも健気に反応を返し、腰を無意識に前後に揺らす艶めかしさときたら、年に不相応なくらい逆に恐ろしいほどである。加えて、そこは慣らし始めた時とは違い、訪れを歓迎するかのように指を揉んで収縮し始めた。

 快楽を味わっていないのではとばかりに思っていたが、思い違いであったらしい。吸いつくように貧欲な、愛らしい蠕動に興奮し、やや強引に押し広げて奥の方を目指す。思わず気持ちよさそうな聲に胸を撫で下ろした。

「ひっん、や、あぁっもう……ぃっ」

「すごい……前、触ってないのにもっと濡れてくるよ」

 緊張するように突っ張られた、淡い腹筋の影が見える白い腹を見ていると、ここもまた食欲に似た欲求が湧いて止まらなくなってくる。おやつの氷砂糖を舐めるみたいに舌で味わい乍ら辿り、唾液の跡を描いては少し前にいたぶられ赤く腫れた乳首を再び思い出したかのように、歯で挟んだり吸ったりし乍ら虐め始めると内股を痙攣させて彼は意味の分からない甘い聲を上げた。

 周りの桃に色づいた部分までぽってりと少し腫れ上がり、乳首は影を落とすくらいに硬く勃起している。初めて見た時の彼の胸元より、いやらしく僕を誘って強請っていた。

 普段は教卓から見える綺麗な白い顔も、真っ赤に茹で上がって目からはボロボロと涙が粒となって落ちている。形のいい薄い唇も唾液に濡れて、隙間から上がる嬌声は掠れていて妖艶だった。

 大丈夫かどうかという、僕の質問に答えようとしたのか、起きあがらない舌を賢明に動かそうとして、くぐもった途切れ途切れの喘ぎ聲の間に何か言葉を挟もうと賢明になっている姿が目の前にあり、堪らず細い腰を抱いては身体を密着させ、同時に中の指を三本に増やしてゴリゴリと押して前立腺を直接刺激すると何度目かの絶頂。仰け反る身体を押さえつけ、彼の射精が終えるまで指の動きは止めてやらない。

 いっそ下品なくらいにぐちゅぐちゅと其処が啼く。速まる指の動きに合わせて水音を派手に響かせつつ長い絶頂を味合わせてやると「やだ」だとか「やめて」と懇願する姿があった。

 その割には気持ちがいいと訴える様に、完全に受け入れる場所となって了った後孔を断続的に締めて口元に薄らと笑みを浮かべている。

 生々しい水音が鳴りやまず、壊れた蛇口の様に長引く射精を繰り返す彼の性器はビクビクと痙攣して男である事も忘れかけている様な有様だ。排泄器官を開発されてからと云うものの、彼の性器に触れる回数は行為の度に減って行く。

 ついこの間までは、イきそうだから前も触ってと云っていたのに。今では一人でする時でさえ後ろを触ってしまうらしく、責任をとれと、何度愛しても淡く初々しいままの桃色の後孔を広げて誘われた日は据え膳喰わぬはなんとやらを身を持って実感した。

 そろそろ終わりの見えなかった射精も種が尽きたのか、荒い呼吸を繰り返す彼の腹には新たな白い染みが広がる事も無くなった。然し、これで終わりでない。男のそれとは懸け離れるほど腫れた乳首に、終わりの合図と云わんばかりに赤ん坊みたいに食らいつくと濁音混じりの、理性を完全に手放した、喘ぎ聲とは形容しづらい悲鳴のようなものが聞こえ、彼の身体は再び陸に上げられた魚のように大きく痙攣して僕の身体にしがみつくと何も出さずに小さく果てた。

「あ……んぅ……」

「……はぁ、可愛い……乳首だけでイける様になっちゃったの?」

 目の奥はとろけるように潤んで、開きっぱなしの唇から真っ赤濡れた舌を覗かせている。胸が締め付けられて、目の前の彼が自分の好物であると、脳が食せと怒鳴り散らす様な衝撃が身体を震わせる。

 ヒクついた中から指を抜き、濡れた唇に誘われるみたいに甘い舌に噛みついて、自分の欲望を塗りつけるようにし乍ら熱い唾液を注ぎ込み、掻き混ぜると隙間無く唇を合わせて息も出来ない様なキスを続けた。

 そのまま暫く、酸素も薄くなって来てからやっと解放してみると、口元に少し疲れたような表情を見せつつも、恥ずかしげな微笑みを浮かべた彼が、こくんと流し込まれた唾液を嬉しそうに飲み込んで身体を震わせる。自覚はないらしいが、こうして唾液を飲むことを強要されるような強引なキスが好きらしい。舌を噛まれたり、吸われたりするのも。そういう風に躾た、否、愛したのは誰でもない僕だったのだけれど。

 ふぅふぅと、酸素を散り込み乍ら僕の肩に顔を埋める仕草。汗をかいた身体からは蒸れた青臭い性の臭いに混じって、彼の甘くて病みつきになりそうな香りまで。乱れても艶をなくさない髪を撫で、汗で湿った頭皮を指で撫でて抱き締める。而して、二人の時間を味わった。

 時が止まったような、優しくも愛おしい時間。このまま一つになってしまえばいいのになんて、少しロマンチストな思考が漂う。

 終った後、とても可愛かったと伝えると、髪の束を引っ張られてクスクスと笑った。セックスの最中は可愛いと褒めると、だらしない笑顔を浮かべて後ろで指をぎゅうぎゅうと締め付けるのに、終わった途端、普通の男の子らしく嫌がるような仕草を見せる――そんなところが堪らないのは本人には秘密なのだが――。

 もう落ちてしまいそうな彼の瞼にキスを落として、汚れた身体を拭いて上げようと身体を起こすと下から寝間着の胸ぐらを捕まれて再び覆い被さる形となってしまう。慌てて顔の横に両手をつき、下の少し不服そうに唇を尖らせた顔と目があって首を傾げた。

「フレンのは? 自分で抜くのか」

 大体、いつも彼は絶頂の後、意識を手放すことが多い。まだ身体に思考が追いついていないようで仕方がないと分かっていたし、何も自分の処理まで相手にしてもらおうなんて一度も考えたことはなかった。これは“いつか”の為の前準備。彼が成熟して、その時に繋がるまでの。

 けれども後ろで快感を拾えるようになって、少しずつ身体が追いつき始めた彼はイった後も意識があることが増えた。それでもかなりの頻度ですぐ寝てしまうのだが、今日は違うらしい。僕の身体を押しのけて下から抜け出すと膝立ちとなり、服の裾を握られる。

「……口で、ぬ……抜いて、やろうか」

 思わぬお誘いに、きょとんと時間が止まった様に固まった。姿勢を正し、向かい合って座り直そうとした僕の股間に待ちきれないとでも云う風に手をかけ、すっかり膨れ上がった性器を布の上から恐る恐る揉んでくる。

 彼が寝静まった後、自分で始末するのは慣れていたのだけれど。しかし前に何度か、その不慣れな口淫を施してもらった際、テクニックなどは置いておいて、あれ程までに愛してやまない戀人が自分の膨らんだ情けない愚息を口一杯に含んで腰を揺らしていた光景というのは、いやらしいとか、そういう次元のものではない破壊力があった。

 興奮で間隔が狭まった鼻息だとか、口で味わう精の味に脳が溶かされている様な眼差し。

 それら全てが僕を魅了していた。

「いいの? でも、君クタクタだろ」

「……したい。先生は嫌?」

 暗がりに、ニィっと口角を上げて微笑む見目好い顔が見えた。僕が彼の年頃の時は同性の性器に興味なんて一切無かった。否、彼だって僕以外の其れになんて興味なんてないだろうと、自惚れてみたりもする。

 世の中の普通という基準に当て嵌まっていれば、それは極々当然の事。けれど目の前の、この美しい僕の思い人は、自分の身体に欲情した、他人の性器を味わいたいと御馳走を目の前にした餓えた子供みたいに目を妖しく輝かせている。

「欲しいの?」

「っ……うん。フレンの、頑張ってここで気持ちよくさせるから……」

 小さな口を開き、見せつけるみたいに舌を出す。

 性器で口内を犯して欲しいという目の前の彼は、昼間は普通に制服を着て勉強をし、早起きをして自分で作った弁当を友人達と話し乍ら食べ、放課後には隣近所の子供の世話をする様な何の變哲もない、極々健全な、高校生であるのに。

 欲しくて堪らないと云う様な雌の顔をして、僕が頷くのを見ると嬉しそうに下履きをずらせて、膨らんだ下着の上から勃起した一物に頬擦りまでして腰を揺らす。

 細くて白い指。下着から取り出した、上向いた赤黒い肉にそれが絡み、まだ滑らない陰茎を控えめに扱いては人差し指で尿道口から染み出る先走りを広げる様に愛撫し始める。

 初めて押し倒した時の、あの恥ずかしくて今にも泣きそうな顔が懐かしく思える。

 あの時は下着を脱がせ、最初こそ僕の手で綺麗な形と色をした性器を扱いて、イかせて上げただけ。

 そこから徐々に、睾丸への愛撫の気持ちよさを覚えさせたり、上着も脱がせて素肌を唇で辿ったり。胸を丁寧に愛して、乳首も沢山可愛がって。

 彼からすると僕の男性への愛撫は慣れている風に見えたらしく、以前僕に男の戀人がいたのではないかと云う疑惑までかけられた。これでも自分も色々と手探り状態で、あまり自信がなかったのだが、そこまで思われる程に彼が感じていると知って胸を撫で下ろしたものだ。

 君に素質があるだけなんじゃないかと云う僕の率直な意見はこっそりと胸にしまって、それは穏やかに否定した。

 そうして戯れの様な交わりを繰り返して、柔らかな臀部の狭間にある窪みにそろそろと指を這わせたのだ。

 洗浄さえも知らなかった彼を風呂場に連れ込んで、今から何をするのかと云う事を丁寧に説明しつつも、「洗う? どうやって?」と首を傾げている青年を少し強引に引っ張った。

 着々と準備する様子を見て洗い方を悟ったのか、拒否の言葉を上げようとするも時は既に遅し。

 模擬的な排泄を僕に目の前で見られたのが、彼の高いプライドを根刮ぎ蹴り倒して了ったらしく、顔を両腕で覆って「見るな」と涙聲で訴える姿に興奮しない訳も無く。その後、變態と一日中罵られたのは云うまでもない。

 腸内を慣らし、指を一本、第一関節まで入れるだけでも顔を顰めているのを無理強いはせずに連日優しく愛し乍ら少しずつ広げて行く。

 今では後孔を指の腹で撫でると僅かに口を開いて期待をする様な動作も見せる程に。

 女性とのセックスはした事がないらしい、そんな男の悦びさえも何も知らない身体を女の子の様に愛して、欲しいと云わせる程にまでさせて了った自分は天国に行けるのかさえも怪しかった。

 こんな田舎では高校生で童貞というのも何ら可笑しい事でもなかったが、目の前のこの子は、後孔で気持ちよくなる術を擦り込まれていると云う男として普通に生きていてもまずは有り得ない経験をこの歳で済ませてしまっているのだ。

 その現状に不謹慎乍らも昂ってしまうのが男の悲しい性と云うか、罪と云うか。兎に角、そんないやらしい一面を持っているのにも関わらず、普通に生活をしている戀人が可愛いと云うか。

「っ……はぁ、上手になったね」

「んむっ、そ? まだ、色々べんきょー中なんだけどさ」

 唇でちゃんと締めて、歯は勿論立てず。尿道を舌で抜き差ししたかと思うと顔を前後に揺らして頬の内側で最も敏感な部分を受け止め、鼻をすんすんと鳴らし乍らダラダラと止めどなく垂れるカウパー液も健気に喉を動かして胃に流し込んでくれる。

 伏せられた目を飾る長い睫毛は涙で濡れて束になっていて、口に入りきらない部分も温かい手で浮き出た血管をなぞったり、果ては裏筋を刺激したりと甲斐甲斐しいまでの口淫に思わず唇を舐めた。褒める様に髪を撫でればそれだけで彼の腰は電流が走ったかの様にビクビクと跳ねて、僕の性器を舐めているだけだと云うのに分かり易く感じている。

 それと比例する様に口淫の方も激しくなり、最早手も使わずに喉の奥に先端がぶつかる勢いで、じゅぷじゅぷと厭な音が部屋に立ちこめるのも構わずに口全体を使って男の性器に奉仕をする細く白い身体はもはや目に毒と云っても過言ではない程の。

 直腸の収縮によって搾り取られる様な、まるでセックスをしてるみたいな感覚に陥って、早く出してくれと懇願している喉の奥に「出すよ」と語りかけると美しかった青年は、口一杯に性器を咥えこんで頬の形を歪に變え、嬉しいと云いた気に目を細めて頷いた。

 普通ならば口を離すだろうに先程よりも奥に招き入れ、射精寸前の愚息を暖かく包み込む。堪えきれず小さな頭を掴んで彼の暖かなそこに溜め込んだ精液を流し込めば彼の腰が浮いて、気持ちが良さそうに揺れたのが見えた。

「……お利口さんだね。全部飲まなくていいよ」

 ちゅぷ、と口から抜き、まだ口内に大量の精液を零さずに留めているままの蕩けた顔に語りかけると、窄めた口を開いては己の手の平にゴポっと音がしそうなくらいの精液が唾液と混じって吐き出される。顎を伝う精液が、全体が赤く染まった身体を白く汚していく。そのコントラストが、やけに眩しかった。而してまた、まだ自分も若いのだなと精の量を見て実感。

「ふぅ……窒息するかとおもった」

「ごめんね、ユーリが凄い可愛かったから」

 ユーリ、と呼ばれた目の前の青年が頬を染める。ティッシュを取って、手の平の精液を拭い取ってやると座り直した彼の股間が視界に入りまたもや思考が熱っぽくなるのを感じた。

「……ユーリ、僕の舐めてイっちゃったの?」

「は? ……ばっあ、あの、これはだな、ちっ違うっ! つか人のちんこ気軽に見んな!」

「ぶっ……はは、気軽にって、ユーリは面白いなぁ。そんなつもりはなかったんだけど。これからは気をつけるよ。気重に見ればいいのかい?」

「だぁーっもう、うるせぇ喋んな!」

 身体を綺麗に拭いてやってる間もユーリと話すのは楽しかった。くすくす笑って、まだ眠たくなさそうな様子を見て「先にお風呂に入っておいで」と云うと途端申し訳なさそうにする。君が出た後の浴室の香りを堪能するからと、気を使わせない様にふざけると「屁こいててやるよ」などと云って鼻を摘まれて、お互い馬鹿げた冗談を云い合って笑った。

 別にロマンチックなピロートークなんて期待していない。君が気持ち良さそうで、君が楽しそうで、君が、ユーリが僕の隣にいたら。

「なぁフレン」

「なんだい?」

 風呂から出た後涼しく過ごせる為にとエアコンの調節をしている僕の背中に、もう風呂場に向かっていたとばかりに思っていたユーリの聲が掛けられて振り向いた。

 腰まで伸ばした髪が仄かな電灯の下で揺れて、隠されてもいない素肌が佇んでいる。

 その身体を自分が先程まで熱くさせて愛していたのかと思うと幸せである反面、切なくなるのはどうしてか。

「……んーやっぱいいや」

 言葉を濁らせて、それだけ呟くとユーリは風呂場に入っていった。暫くして、シャワーの水が床を叩く音が聞こえる。

 取り残された僕は、その言葉の真意を分かっていた。

 ユーリが云ったのは僕が残している最後の砦。

 ――そうは云ってもなぁ。

 ボリボリと頭を掻いて、今更何を堪えているのか自分でもよく分からなかったが、この一線を越えてしまってはいけない様な気がして。

 溜め息の後に立ち上がって、下着の準備も無しに風呂場へ行ったユーリの為に、自分の箪笥の中に何故か収納されてある彼の下着と自分の寝間着用の、よれよれのシャツやバスタオルを取り出して風呂場の前に置いておいた。

 彼とこういう、戯れを始めて暫く。

 自分の性器を彼の中に、詰まる所、僕達はまだセックスはしていなかった。

 

  2

 

 今まで朧げだった景色にピントが合う。

 この景色はそろそろ見慣れてきた筈の、春からの自分の住まいのものであった。

 消魂しい蝉の聲と、蒸し暑い空気に一瞬何ごとかと目を薄らと開くが、ボリボリと湿った頭皮を掻き毟って、そういえば自分は先日やっと夏休暇らしい休みにはいったことを思い出す。

 故郷に、高校の教師として戻ってきて暫く。

 以前働いていた女学院の校長である方に「君が適任だろう。安心したまえ、あちらに私の部下もいる」と直々に頼まれ、両校による何らかの駆け引きの代償として町に戻ってきた。レイヴンという名の、何処かで見たことがあるような保険医が校長の云っていた部下らしいが――彼が何者なのかは自分もよく知らない――この移動が両校の間にどのような利益があるのかは見当もつかず、レイヴンと名乗るその人に詳しく聞こうにも、後に分かると云われるばかりで深く問いただすことも出来ない。

 それに、自分はこの町に戻ってくるきっかけが出来たことに、心の奥底でホッとしていたのだ。

 その理由は、やはりあの子のことで。

 古びたアパートの二階部分。ここは元々、大家の娘夫婦が二階部分の壁を撤去して改装した大きな一室であり、今はもう娘夫婦は住んでいないとのことで厚意で貸してもらっている現在の自宅。三室分の広さなので何ら不便なことはないが、一つ謂うとするとトイレが三つもあるが故に掃除が大變というところだろうか。

 父が死んでから、父方の祖母の家で母と共に少年期から高校卒業までの十年近くの年月を過ごしたが、帰ってきた頃には既に名前もよく知らない親戚夫婦がそこで暮らしていた。邪魔をする気もなく、新居を探していたところに持ちかけられたのがこの部屋の話。

 周りは昔からの顔見知りばかりということもあり、二つ返事で入居を決めた。而して向かいには、幼い頃から行きつけであった〈帚星〉という小さな民宿。一階が居酒屋となっており、祭りがあったり何かしら人が集まる行事ごとが有れば皆がそこへ自然と集まった。けれど僕が行きつけであったのは、それだけじゃあない。

 事故で唯一の肉親であった母親を亡くし、葬儀で一人、母の遺影を前に首を傾げていた子供。

 “その子”は元々、町の子ではなかった。何処からか引っ越してきたばかりの長い黒髪の美しい女性の子供で、その後ろでずっと少年は俯いていた。町の行事にも顔は出さなかったし、同い年くらいの幼い子供達はその子の家の近所には住んでおらず、確かいつも一人でブランコを漕いでいた。

 当時父を亡くしたばかりだった自分は可愛げのない子供の機嫌取りをする余裕もなく、学校の帰り道に必ず通る、錆びた公園で佇む小さな背中を見て見ぬ振りをして毎日通り過ぎた。

 けれども近所の子供の世話をするのは僕の役目であり、幼い少年が夕方まで公園にいたら心配にもなるわけで。名前もうっすらとしか覚えていない子供と無理矢理目を合わせ、反応は貰えなくても、負けじと優しく接して成る可く関わろうと頑張ったりもした。

 早く帰らないと、危ないよ。僕と一緒に帰ろう、そう云って手を伸ばせば、恐る恐る顔を見つめてきて静かに頷いて見せる。それでも、一度も伸ばした手を握られたことはなかったが。

 聲も聞いたことはない他人の子供。責任感らしきものだけが自分を動かしていて、愛情やそんなものは二の次、三の次であった。

 そうしてその子の母が死んだのは、親子が引っ越してきて一年半頃が過ぎた冬の日だった。

『にいちゃん』

 葬儀の手伝いをしていたとき。初めて、その子の聲を聞いた。幼くて、たどたどしい、目の前の状況が理解できずとも少なからず不安を抱いている聲だった。

 服の裾を引っ張られた先に、小さな頭が見える。まさか話しかけられるとは思っておらず、こう云った場合はお悔やみ申し上げます等と云うべきか、でも相手は子供なのだし――そう悩んでいたのも束の間、少年から言葉は続けられた。

『かあちゃんも、おじさんみたいに、オレがいらないから怒ったのかな』

 少年の項垂れた頭で揺れるのは、あの女性にそっくりの黒髪だった。

 おじさん、と語られるのは最初は誰のことか分からなかった。町にやってきたのは、この子と、この子の母親だけだったのだから。

 思考が追いつかず、それでも少しずつ、頭の中にある微かな記憶と結びついていく。

 少年は夏場でも、長袖を着ていた。大きな大人の聲を聞くのが嫌なのか、祭りが行われる週始めには怯えるように顔を顰めて、倉皇と公園から帰る小さな背を見ていた。

 母親が仕事でない時は、母親の側から離れなかった。

 人の顔を見ることもせず、俯いてばかりだった。

 母子が引っ越してきた理由を、まだ子供だった僕は直接には聞かせて貰えてはいなかったが、既に血の繋がった父親とは死別、その後、母親が再婚して、色々あって引っ越してきたとだけは母と祖母が話しているのを聞いて――。

 ――長袖のシャツを、頑なに捲らなかったのは。

 

 嗚呼――そうだったのか。

 

 もっと早く気づけた筈だったのだ。けれど、僕はこの子を知ることもせずに、變わった子だと決め込んで遠ざけていた。

 

『かえってくると思う?』

 

 父を亡くしたとき、あれほどまでに絶望した日はなかった。大好きな父だった。正義感のある立派な警官で、誰よりも尊敬していた父を、僕から奪った神様を、心の奥底から恨んだ。

 元より身体が弱かった母の病状は悪化し、それでも、僕には母がいて、周りの支えもあった。祖父母もいれば、お隣さんや遠いが親戚だって。だから、立ち直れたのだ。父の代わりに母を支えようと思えた。

 でも、この子には誰がいるのだろう。

 ゆっくりと屈んで、少年と目を合わせた。

 目にかかるか、かからないかくらいの前髪から覗く大きな瞳が、少し怯えた色で僕を見ていた。片手で包み込めてしまいそうな小さな顔に、頬に影を落とす長い睫毛。ハの字になった眉間の皺が、今にもぶつかってしまいそうだった。

 その表情は何も知らず、純粋に疑問を浮かべている。

 自分が悪いから、母は何処かへ行って了った。謝らなければならない。謝れば、帰ってきてくれるはずだ。

 独りぼっちは嫌だと、訴えていた。

 そんな気がした。

『にいちゃん?』

 抱き締めると、益々小さな身体だった。折れてしまいそうなくらい細くて、頼りなげで。泣かない少年の代わりのように、肩を震わせて言葉も紡げぬほどに泣いた。

 僕はこの子を守らなければ。独りぼっちなんかにさせれない。

 何か決意のようなものが、僕の背を押した。戸惑った聲を上げる少年と向き合い、僕は誓った。

『……僕が君のお兄ちゃんになってあげる』

『……おにいちゃん?』

『そう。……君のお母さんのいる場所が分かるまで。ううん、ずっとその先も、僕が君のお兄ちゃんになっててあげる。だから大丈夫だよ、一人じゃないから』

 柔らかな白い手を握った。

 少年は少しポカンとした後に、今まで握られたことのない僕の手を、強く握り返してくれた。

 瞳の色はもう、僕のことを怯えてなんて無かった。

 而して少年は〈帚星〉を営む、当時はまだ若かった夫婦に引きとられ、周りの大人に支えられて施設に送られることは免れた。

 僕は毎日そこに訪れては少年と共に過ごし、彼が寂しくないように何をするにも傍にいた。

 僕と彼の、初めてのそれらしいコンタクトがそれだった。

 

「――フレン?」

 

 ペタペタと、床を素足で歩く音。未だ布団に寝転がり乍ら少し過去のことを思い出して感傷に浸っていた僕の耳に、最近になってやっと聞き慣れた、幾分か低くなった呼び聲が聞こえた。足跡が近づき、襖が開かれる軋んだ音がして、見上げた先には眼福と云うべきか。

 膝上まで折られたゆったりとしたズボンに、上は僕が貸してあげた大きめの寝間着。

 而して更には襖の向こうからいい匂いが漂ってきて、朝食だろうか。その証拠に黒のエプロンまで腰につけて、髪を結い上げた愛しい、彼が。

「ユーリ……おはよう」

「おはようさん、随分とよく寝てたな。昼飯か朝飯か良くわかんねぇけど、飯ならもう出来てっから」

 窓から差し込む日光に、反射して輝く眩しい素足は細すぎず、それでいて筋っぽくもなく。けれども女性の足と云うには不格好で、そのアンバランスさが何とも……などと僕が思ってることも知らず、一緒にご飯を食べようと微笑み乍ら屈み、こちらに手を伸ばしてくる様子は、今すぐにでも彼を横抱きに抱えて家を飛び出し、市役所に婚姻届を投げつけたくなるほどに愛おしいものであった。

 而してそのままハネムーンに直行である。

 相も變わらず今日も可愛い彼は、あの時僕が兄になると宣言した幼い少年で、今は高校二年生になる。名前はユーリ。

 この町の高校教師として帰ってきた僕であったが、いきなり担任を受け持つことになったのだ。

 ユーリがその高校に通っていたのは女将さんからのメールで既に知ってはいたのだけれど、まさか渡された名簿に〈ユーリ・ローウェル〉の名があるとは思ってもいなかった。

 暫く會わなかった間にユーリはすっかり大人になっており、頬杖をついて窓の外を見つめる彼の横顔は自分の知っているユーリではなかった。

 綺麗だ、などと思って了った自分に気がついて、その思考に頭を冷やさねばと思いつつもまた昔のように、ユーリの側に居座りたい自分がいた。

 けれども、離れていた数年間というものを自分は甘く見ていたようだった。ユーリの余所余所しい態度と、それをどう受け止めて良いか分からない自分。加えて、謝りたいという本音。広がって了った溝を埋めたかったのだ。

 何だかんだと云っても直ぐに戻れると思っていたのも束の間、それはそんなに容易なことではなかった。

 一番堪えたのはユーリに学校以外で先生として扱われ、敬語で挨拶をされたあの時だろうか。何もかもが自分が悪いと分かってい乍らも、その日の晩は色々と考えてあまり眠れなかった程に。 

 そうして数ヶ月という、数字にしてみれば大したことの無いように思える時間をかけて――それでも僕にしてみれば数十年のようにも感じられた――漸くユーリと本当の意味の再会を果たした。

 それはそれで、良かったのだ。問題は、その時の自分の行動にある。

 僕の愛車の中でお互いの気持ちを吐き出し、目に沢山の涙を浮かべた、美しくなったユーリが赤らんだ顔で切なげに僕を見つめていた。

 数年前、最後に見たユーリの泣き顔とは全く違う。何かよくわからない起爆剤が静かに破裂し、気づけばユーリの唇を奪っていた。後に知るが、ユーリはあの時に交わしたキスが人生で初めてだったらしい。

 拒めばいいところを悪い大人に流されて、怖ず怖ずと重ねてくる薄い舌に正直どうしようもなく興奮して、この子が欲しいとさえ思った。

 自分がユーリに抱いていた感情は、愛情そのものだった。變わることのない純朴な感情で、決して踏み外してはいけないもの。

 同性で、兄弟みたいに育って、そうして先生と生徒。

 けれども、もしかすると、自分は最初からユーリと出會ったあの日から心の何処かで予兆を感じ取っていたのかもしれない。

 晴れて戀人、といったような関係となった今。

 勿論、周りにはバレてはいけない。昔から親しすぎるほどに仲が良かったこともあり、ユーリがこうして僕の家に訪れることに周りは何ら疑問を抱かなかったのが幸いと云ったところか。

 アパートのすぐ向かいにある〈帚星〉。徒歩数十秒の近さ。

 ユーリの夏期講習も終わり、僕が夏休暇に入ったこともあって、ユーリは昨日の夜から僕の家に泊まっている。

「今のその格好すごく可愛いね」

「それはどーも」

 早く、飯が冷めちまう、と急かし乍ら膝をついて布団の上を這い、未だダラダラしている僕を華奢な身体が起こしてくれた。

 なんだか世話焼きのお嫁さんのようで、胸が締め付けられるようにときめいてしまう。

 昨晩の情事の後に済ませた入浴によって彼の美しい黒髪から自分と同じシャンプーの香りがして、思わず目を細めてユーリの身体を抱き締めた。

 抱擁なんて何度もしてきたのに未だ慣れないのか、ゼロになった身体の距離にユーリはぴくりと肩を跳ねさせる。細い腰を抱き、すぐ目の前にあったユーリの胸元に顔を埋めて「わっ」と小さく驚く聲と共に、布団の上に共に後ろへ倒れ込んだ。

 間一髪、布団に手をついたらしいユーリだったが、逆に僕を跨ぐような体勢になっていて何ともそそられるものがある。

 少し大きめのシャツから見える鎖骨だとか、そこから先の胸元だって。腰を抱いていた手を、脚の上に乗ってしまっているユーリの柔らかな臀部へと滑らせ、そこを撫で乍ら、何か云いたそうだったユーリの唇に啄むようなキスをしてみる。

 すると顔が更に真っ赤になり、僕を仕方のない奴だと目で訴えつつも、様々な角度からキスを繰り返す内にその瞳も次第にとろけていって恥ずかしそうにしつつも健気にキスに応えてくれた。

 僕にこうして甘えられると、隠している様ではあるが、見るからに嬉しいと云った表情をするユーリが可愛くて、二人の時間を過ごしている時の僕は大して格好もつけずに、空気を読んでから自分で良しと見なせばユーリに思う存分に触れる。

 学校などで毎日顔を會わすのだが、お互いメリハリを付けようと必要以上の会話はしないし、ボディータッチなど以ての外。テスト期間中は放課後でも最低限の会話はしない、お互いの家には足を踏み入れない、というのが二人で決めたルールだ。

 その反動もあってか、休日、仕事を終わらせてユーリと過ごす時間が出来ると自分を抑えることが出来ない場合もある。

 こう云った戀人同士のスキンシップは消極的な筈だった自分が、彼を前にするといとも簡単に崩れ去ってしまう。僕の些細な動作にだって敏感に反応して表情を變えて、不慣れな部分をカバーしようと必死でこちらに合わせてきたり。愛しいという言葉はこう云うことを云うのだと、僕は身を持って感じていた。

 然し、それでもまだ、越えていない壁だって有る。そもそも越えてもいいのだろうか、という気持ちが強い。

 それが所謂、セックスの事なのだけれども。

「ん……っも、フレン、飯あるんだってのっキスなんかいつでも出来るだろ。あと尻を触るな揉むな」

「ご飯……今日のご飯は?」

「いつもの和食コース、だから冷めると不味い。……そういや、いっつもオレ作り慣れてる和食出すけど、お前ってパンとかの方がいい?」

「ううん? ユーリの作ってくれるものなら何でも美味しいよ」

 あっそう、と聞いておいて心底どうでも良さそうに、ボリボリ頬を掻くユーリの顔色は、どこか嬉しげで、思わず口元に笑みを描いた。

「よし、じゃあ、ご飯にしようか」

「だから最初から云ってんだろうが」

 心地のいいユーリの重みが消える。呆れた顔をしていたのがすぐに微笑みに變わって、エプロンの皺を伸ばし乍ら、僕の腕を引っ張って起こしてくれる。

 共に立ち上がってユーリについて歩くと、歩く度に揺れる黒髪があった。

 ユーリは綺麗だ。容姿とか、そういうことだけじゃなく。口は悪いし、決して優等生というわけじゃない。性格は見ている此方がハラハラするくらいに怖いもの知らずで負けず嫌い。人に大して甘いというわけでもなく、云うべき事はちゃんと口にする。押さえつけられることが大嫌いで自由奔放、待てば海路の日和有り思考の割に何処までも計算深く、素早く状況を判断する。

 戀路に関しては随分と鈍いようではあるが。

 出會った当時のあの大人しさには、色んな陰があったのだろう。今のユーリこそが、きっと本当の彼自身であると確証はないが云いきれる自信はあった。

 ユーリの何を持って美しいと云うのか。

 勿体ぶっている訳では無いのだが、自分でもよくわからないのだ。けれどユーリは、僕には絶対に得ることの出来ない光を持っている。

 段々と強くなる光。僕が照らさねばと思っていた、あの影は最初から無かったかのように。

 僕達には先ほど述べたように両親がいない。

 ユーリに至っては、親と共に過ごした記憶というものが余り無いように思えたし、思い出したがる素振りも見せなかった。

 彼の口から聞く唯一の親の話といえば母親の事ばかりで、父親、という言葉をユーリの口から聞く事はなかった。

 今はもう抵抗無く半袖を着ているし、大人の大きな聲で怖がることもない。

 ユーリが一度だけ云った“おじさん”という存在について僕は勝手な想像と設定をこじつけているに過ぎないけれど、きっとユーリの母親が彼を連れて、この静かな町にやってきた理由の一つということだけは分かった。

 ――オレは今しか分からない。だから今しか見ない。曖昧な過去に縋って生きるのは疲れるからな。

 そう云って母親の遺影に手を合わせた。

 だが、今を生きる事と故人を忘れる事は違うものだと、線香の頭から描かれる白い線を見つめてユーリは微笑んだ。

 母親の死を引きずり乍ら、現在自分の置かれている環境と周りの人に感謝して、“今”を生きる事を選んだのだと。

 母親がいなくなって数年間は、トイレに行こうとする僕の背中にまでついて来て「待ってていい?」などとユーリは不安そうに見上げて聞いてきた。

 幼いユーリには僕が必要なのだと思ったし、誰かに必要とされている自分に心の底から安心している面もあった。けれど、再会してからのユーリと云えば、驚かされることばかりであったから。

 女将さんの手伝いをこなし、おまけに料理だって作れてしまう。洗濯だって自分でするし、昔は僕の役目であった近所の子供の遊び相手は、今は彼の役目になっていた。

 勉強だって出来ない訳じゃない。

 基礎は分かっていて、前もってきちんと勉強すれば、もっと良い点数がとれるようなものばかりに思える。

 学年の女子からも男子からも好かれて、たまに助っ人で参加している剣道部の後輩からは良く慕われているようであるし、近所の人々や先生からも無鉄砲さ故に叱られる事こそ多いが、矢張りその分可愛がられていて、ユーリはもうあの時の守ってあげなければならない子供ではなくなっていた。

 女将さん曰く、僕がいなくなってから突然自分のことは自分でするようになり、しっかりし始めたのだと聞いた。

 喜ばしいことだった。

 あの日だって、休んだ委員の子の代わりに誰か仕事を引き受けてくれないかと聲をかけると、誰も手を挙げたがらない中で、ユーリは自分がすると手を挙げて引き受けてくれた。

 ユーリは疾うに、子供などではなかったのだ。

 二年生を対象にした進路希望調査には〈卒業して何年か実家の手伝いをして、貯金して、必要だと感じたら調理の学校に行く〉と簡潔に書かれており、大学には行かないと、それだけは明確に記されていた。

 自分の将来のことだって考えれている。彼はやはり料理が好きなようで、子供の世話なども口には出さないが嫌いでないようだった。保育士や栄養士、そういった類の話を持ちかけると少し悩んでいたし、短期大学の道もあると話すと「考えてみる」と頷いた。

 そうして僕は漠然と、ユーリのこの先についてを考えてみるのだ。飛ばした紙飛行機の行方を見守る少年の様に、自分が愛した子が色んな人と関わって生きてゆき、様々な経験をして、どんな道を築くのかと。

 而してその道中、様々な影がちらつく。ユーリが誰かと結ばれて、父親になったらなどと。その起こりうる出来事は、ちっともおかしくなんてなかった。寧ろユーリのこの先を考えると、そのイメージの方が自然と浮かび上がってしまうのだ。

 彼にお似合いの花の様な女性と、小さな子供を挟んで歩くユーリの背の何処に不自然な部分があるというのか、箇条書きで記せと云われても筆が数ミリも動かない程に、自然で、それが美しくて。

 未来の愛しい君の隣に、白髪まじりのオジサンとなった自分がいると考えるだけで滑稽で、可笑しいくらいに情けなかったのだ。

 驚くくらいに不釣り合いだった。それでもユーリの傍にいたいと願ってしまう様な、自分の愚かさが、最も醜かった。

 ユーリは、僕のことを好きだと云う。

 ユーリは自身と僕の気持ちの違いに、何れ気付くのかも知れない。僕の執念と嫉妬深さなんて知りもせず、記憶が自然と補正した美化された僕だけがユーリに愛され続けられるのだ。

 本当の僕は、彼の記憶の隙間に挟まれる事も無く、この二人の関係にヒビを入れる原因としてだけ存在する。

 一生幸せにしてみせるから。この先も僕だけを見てくれなんて、たった十七歳の相手に簡単に云えなかったのだ。

 自分の言葉が彼を縛る事になったらと思うと恐ろしく、何も知らない小指に誓わせるなんて出来なかった。

 引き際が分からなくなる。いつからこうなって了ったのか、彼女と別れる前からなのか、それよりも前からなのか。

 エプロンを外してエアコンの温度を一度下げ、結っていた髪を下ろし「いい加減切った方がいいのかも知れない」と括り直すユーリを見つめていた。

 少し冷めてしまっても尚、美味しそうな食事が並んだ食卓についても、ずっと。

 大切に保管して眺めているだけだった、硝子のケースに飾られていた宝石を、実際手にしたその時に本当の美しさと自分の身の丈を改めてを知る。お互い所々似た様な境遇を辿って、支え合っている内に抱いている感情が名前が分からなくなって今に至るのだが。

 今からでも遅くないのかも知れないが、いつからか手の離し方が僕には分からなくなってしまっていた。

 実際、僕はユーリに愛していると面と向かって伝えれた事がない。その言葉を云ってしまうと、後に戻る為の道が全て塞がってしまうような気がして、塞いでしまう様な気がして。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 そうして朝の情報番組を眺めていると、タイムリーな事に歳の差婚を果たした芸能人の話題が繰り広げられていた。

 十歳下のモデルと結婚をした俳優について、コメンテーターが「是非二人には幸せになってもらいたいものです」などと、思っても無い様な空っぽの言葉を残し、次のコーナーへと直ぐさま移ってしまう。自分達も、こうして膚浅な言葉の一つでもかけてもらえるくらい、軽々く祝福される様な仲であれば。

 いい歳になって、こんな事を夢見てしまっているのが情けないのではあるが。

「――んでさ今日の花火大会、女将さんがそうしろっていってんだけど、どうする?」

 箸が食器にぶつかる音の中、途絶えていた意識の中でも、彼が言葉を紡いでいたのは知ってはいたが耳に届いておらず、突然振られた会話に食事の手が止まる。

 思わず苦笑いをして、数秒。ユーリの目が細められ、咎める様に吊り上がる。

「ご、ごめん、聞いてなかった」

 正直に云うと、彼は態とらしい溜め息をつく。

「おいおい……フレンってたまにボケーっとしてるよな。最近それ多い」

 どうやら気付かぬ所で、僕はこういった思案顔を頻繁に浮かべていたらしい。

 これからは気をつけなければと、今は目の前にいるユーリと真っ直ぐに見つめ合った。

「すまない、少し考え事」

 と、僕。

「……戀人と一緒にいるのに仕事の事ですかー……」

 と、ユーリ。

 ああ、もう。彼の言動一つ一つに可愛いと叫んでしまいそうになる自分を落ち着かせ、仕事の事じゃないよと箸を置いて。手を膝に乗せた。

「んじゃあ、なに」

「ユーリのこと」

 効果音がついてしまいそうなくらい、派手に赤くなった顔を見つめ続けるとユーリの方から目を逸らせた。

 自分の事を考えられていると云うだけで、此れ程まで初々しく可愛らしい反応が返って来られては、してやったり、と云うより何だか自分まで照れくさくなってしまうではないか。

 もう殆ど空っぽになった筈の茶碗の中をユーリは箸で突っつき続け、僕はと云えば意地になってユーリからの言葉が返って来るまで熱心に視線を送り続ける。

 チラリと覗く様な彼の視線を感じ、少しだけこちらに向けられた瞳を逃がさまいと釘を打つ様に強く眼光を送りつける。案の定、逸らせなくなったらしいユーリが箸の先を口につけたまま「……オレのこと、ね」とぼかす様に呟いた。

「そう、ユーリのこと」

「……オレのどんな事?」
「僕と君のこれからの事」

「なんだそれ。今と一緒だろ」

 デカい變化もねぇよと、ユーリの言葉で頭の後ろを強く殴られたような衝撃が走った。

 僕と君のこれからのこと、強ち間違えではなかったのだが、あまりに話題が生々しく現実的すぎたのか、逆に僕がふざけていると思ったのか。どちらにせよ冗談だと捉えたらしい彼の笑顔が、僕の不安な此処となど奪い去って行ったのだ。彼といる時間が長いと、時々どうしようもない様な事で悩み続けてしまう。それほど、彼との関係を壊したくない僕がいて、僕のこれからを真剣に考えてしまっている自覚もあった。
 この先で彼が僕をどう思おうと、二人の関係が變わって行こうと。今の時間を大切にすればいいだけで、先の事はその都度考えてゆけばいいのだ。付き合って、まだ数ヶ月しか経っていない。幾千もの枝分かれした道を共に進んで行った先で、二人が納得した方の道を選べる事が出来たら。それが正解なのではないだろうか。

 お前は真面目すぎるのだと昔から周りに云われていた。それの何がいけないのかと反論すると――そんな自覚は微塵もないのだが――誰にも迷惑はかけないとしても、いつか自分が疲れてしまうと云われた気がする。当時はよく分からなかったが、今なら分かる気がした。僕の我が儘な内面や、嫉妬深い一面、余裕なんてこれっぽっちも無い情けない所も少しずつユーリに晒して行く事になる。隠し通す事が出来る程自分は器用ではなかった。

 だから、その時はその時で、ユーリに託そう。

 彼の中にいる僕と実際の僕。そのギャップの大きさを受け止めてくれるとするなら、それはとても幸せな事だ。而して、ユーリが受け止めきれなかったら、僕が静かに身を引けばいい。

 記憶の中にいる幼いユーリはいつも、僕の云わんとしてることを感じ取っては場の雰囲気相応の行動をした。そんなユーリの一面を知っている僕としてはユーリは本当の僕を知ったとしても無理をして、僕の傍に居続けてくれるんじゃないかだとか。

 そういった不安は耐えなくても、未来の事なんて、今現在分かるなんてあり得ないのだから。

「さっき云いかけてた事って?」

 定期的に同じ問題について悩み、そうして何度目かの解決策が生まれて少し気分が楽になった。

 再び箸を握って、皿に盛りつけられた柔らかい出汁巻き卵を摘んで彼の言葉を待つ。箸で軽く握るだけで、じゅわりと卵に染み込んだ旨味が溢れ、そのまま口に放り込んで茶碗を手に取ると白米も一緒に口へとかき入れた。

 どうしてこんなにも僕好みの料理を作るのか。小学生の頃なんて、カップラーメンのお湯すら淹れることを面倒くさがっていたのに。

 美しい造形の整った出汁巻き卵。大きさや盛りつけの素晴らしい黄金比率にただただ見惚れる。

 味だって絶品である。何かもう少しアクセントを付ければもっといい筈なのだが、それを云うと「健康面にも考慮しないとな」と、敢えて薄口にしている様な事をユーリが前に云っていた。

 その際、少し呆れた様な表情をしたのはきっと見間違いなのだろうと思う。

「あ、そうだ。えっとさ、今日蝙蝠神社の祭り行くじゃん? そんときに女将さんが浴衣あるけどどうすっかって」

 今日は近くの神社で祭りと花火大会があった。

 狗神を祀っている本当に小さな神社で、その昔水の精で或る美しい女神を集落の氏神として奉り、後に女神の子であり神使である氷を纏う狼を奉斎した事に始まると云われている。地面を凍てつかせる狼は悪神だとして神名を無くすが、これが祭神の怒りに触れる事と成り、田畑への猪や鹿などの害獣の被害が増え、再度神名を改めた事によって害獣の被害もなくなり、五穀が豊熟したと語られる。

 そうして何故か、神社には多くの蝙蝠の姿が見られ、その蝙蝠こそが狗神を説得し、村人に新たな神名を与えよと助言する。結果、狗神の怒りを鎮めたとして称えられる様にもなった。そんな背景もあり、町の人々からは親しみを込めて蝙蝠神社、若しくは正式な神社名で呼ばれる。

 矢張り栄えている地域のものとは違って小規模のものであったが、それでも昔からの、町の人々の夏の風物詩であり娯楽であった。僕も幼い頃に何かしら手伝いもしており、小さな祭りであるが故に周辺全体が盛り上がる。

 この夏休みには観光客が来る事も加え、町を活気づけるにはもってこいとの事。

 こちらに帰って来てからは初めての祭りと云う事もあり、参加しようかとは思っていたが、数日前、まさかのユーリからの誘いが舞い込んで来たのだった。勿論、断る訳がない。丁度祭りの前日に講習が終るとの事で、自分も休暇に入る事だしと、その流れでこの家での泊まりが決まった訳なのだが。

「浴衣か……二人分あるのか?」

 自分の浴衣に最後、腕を通したのは確か小学生の頃。それから十年以上も経っているし、今となっては一枚も浴衣なんて持っていない。

「なんか酒屋のおっちゃんのとこの息子さんが、もう柄が若いから着れねぇって、オレにどうぞーって結構前に。一枚は黒地なんだけど、もう一つが白地水色でさーオレにあわねぇの何の」

「酒屋さんのとこの息子さんって、確か三十ニ歳とか、そんなんじゃあ無かったか? 柄が若くてって理由で着れないものが、僕に着れるのだろうか……」

 四捨五入すればそろそろ三十路に入る僕だ。三十ニ歳が着れない柄を想定すると自分でも厳しい様に思えて顔を顰める。

 ユーリは味噌汁を啜って、最後の一口を飲みきると僕の顔をジッと見据えて、意地の悪い様な、何かを企んだ笑みを口元に浮かべた。

「申し訳ないけど、安心しろ。フレンさん、アンタ自覚ないけどすっげー童顔だし若々しいから」

「なっ……僕だってそろそろ……こう、威厳とかで始めるよ」

「こないだとか大学生に間違われたけどな」

「……あれは服装が少し……子供っぽかったんじゃ、ないか」

「オレには普段通りに見えたけど」

 違う?と、朝食を食べ終えたユーリが空になった皿を重ねて「ごちそうさま」と手を合わし、そのまま台所の方へと食器を持って行った。

 確かに、僕は童顔の部類だとは――断じて認めたくはないが――少々、ごく僅かに思うが、それでも歳というものは出るのだ。何でも許されると云う訳では無い。

 残っていた分を平らげて、自分も「ごちそうさまでした」と手を合わせてから、ユーリに続いて皿を下げる。

 浴衣、と云えば。大学生の頃にも一度彼女に着させたっけと、茫と考えて既に洗い物を始めている今の戀人に視線を向けると、視線に気付いたらしく首を傾げ、身長の差で上目遣いになりながら見つめ返してきた。

 君そんな顔、態とだろう歯を食いしばる。

 こんなに可愛い子に浴衣など着させたら大層見栄えも良く美しくなるであろうが、その反面、變な輩に集られるのでは無いかと心配になったりもするのが心配性すぎウゼェと云われる理由の一つなのかも知れない。

 一昨年、ユーリがまだ中学生だった頃。変質者に身体を触られようとしていた高校生の女子をコンビニの帰りに偶々見かけ、犯人に飛び蹴りを喰らわせて数メートル程ぶっ飛ばし、そのまま地面でノびている犯人に馬乗りとなって胸倉を掴むと「オレいま携帯ねぇからテメェ自分で警察に電話しろ」と警察署へ犯人直々に電話させたと云う武勇伝を、彼の友人であり、僕の教え子のアシェットから聞いたのを思い出す。

 その変質者は当時、頻繁に通学路などで現れたらしく被害に遭った女子生徒も多くいたそうだ。

 元より腕っ節には自信のあったユーリは事ある事に周りに色々と頼られていたが、その一連の出来事も田舎である故にすぐに広まったという。

 そして先刻の様な心配は、ユーリには無用だったと真顔になるのだが。

 中学生で一人の大人を吹っ飛ばすなど、どんな脚力をしているんだと恐ろしくもなるが逞しく育ってくれた様で何よりであった。

 多分。

「浴衣、ユーリが着るなら着ようかな」

「じゃあ、お前水色な」

「ユーリも試しに明るい色着てみたら?」

「はっはっは。死んでも嫌」

 たまには違う雰囲気の服装だって、いいと思うのだが。そこまで云うのならば仕方が無いと自分が水色を着る事を了承し、今日の花火大会は浴衣で行く事に決定。   

「お前着付け出来るよな」

「うん、出来るよ」

 んじゃよろしくとユーリがはにかみ、こちらも思わずデレっと顔が緩む。

 地元の祭りだしきっとユーリの同級生も多くいるであろう。而して見回りで、自分の同僚だってチラホラいるに違いない。少し不便に思わなくもないが、それでも傍にユーリがいると思うと心が晴れた。

 それに、学校では何かと先生達に小言を云われる事の多いユーリだ。フレン先生が見張っててくれてこちらも気が楽ですなどと何だかんだと難なく二人で過ごせるだろうし。

 花火を二人で見れるのだからいいか、ユーリの腰を抱き寄せ、そのままこちらを向かせて触れるだけのキスを交わした。

 

  3

 

 昼食を終えて暫くゆっくりした後、そろそろ夕方も近く、着替えようかと自分の分だと云って渡されていた浴衣を別室で広げる。

 思っていたより鮮やかな色合いではなく、仄かに甕覗きに染められた小千谷縮の生地に、シンプルな柄が入っただけのもの。

 これなら別に變じゃないな、自分に合わせて一安心し、瞳の色にも良く合っていていいかも知れないと慣れた手つきで浴衣を自分に着せていく。浴衣の色に合わせられたらしい帯もあり、またお礼をせねばいけないなと思いつつ衣紋を指で整えてから貝の口で帯を結び、形を整えてあっという間に完成。

 高校生の頃はこの時期になると大人達の手伝いをしていた為、子供達の浴衣を着せたり、それだけでなく大人に着せたりもしていた為に非常に手慣れたものであった。

 大きな姿見のある部屋にユーリを呼んで、「そろそろ着替えよう」と聲をかけると居間で少し昼寝をしていたユーリが目を擦りつつフラフラと歩いてくる。

「おはよう」

「おは……」

 ユーリが立つスペースを空けて鏡の前に座り、微笑んだ僕を見てユーリが口をぽかんと開けた。髪や目の色もあってあまりこう云った和服は着ないのだが、彼から見ると矢張り少し變だったかと恥ずかしくなって「どうかな」と問えばユーリが近寄り、膝立ちとなってそれこそ目と鼻の先の距離でマジマジと僕を見る。

「いい。かっこいい」

「……それはどうも」

 思ったよりも、ド直球な褒め言葉だった。ユーリに容姿を褒められる事は少なくはなかったが、こうも真っ直ぐに見つめられるとくすぐったい。

 思わず目を逸らすがそれでもユーリの視線を感じて「いいから着替えるよ」とユーリの顔を手で覆い隠せば「照れんなよ色男」と両手で手を引き離し、僕の爪先にキスをするのだから、この子は何処でそんな仕草を覚えたのかと頭が痛くなる。断じて、僕はそんな事は教えてない。

 口説く様な事ばかり云う生意気な青年を鏡と向かわせて、自分が立ち上がるのと同時にユーリを起こして彼の分の浴衣を広げる。

 ぶかぶかのシャツだけを脱がせ、広げた生地を羽織らせると背縫いとゆきを合わせる。そのまま着々と手際よく着せていった。

 こうしてユーリに、最初に浴衣を着せてあげたのはいつだったろうか。大きな音にも脅えなくなったユーリにお祭りに行こうと誘って、自分のお下がりの浴衣を女将さんと一緒に着せてやったのだっけ。

 けれど祭りの帰り道、ユーリとはぐれてしまって。汗だくになって捜し回り、やがて行き着いた場所でわんわんと泣くユーリの聲が聞こえて一安心したのを覚えてる。

 母さんみたいにフレンがどっかに行ったのかと思った、泣き乍ら話すユーリを背におぶって、ごめんね、何処にも行かないからと機嫌取りに買った綿飴を食べさせて精一杯あやした。

 今となっては何処かに消えてしまいそうなのは、僕よりも寧ろ――そこまで考えて、自分の考えを振り払う様に首を振った。

 帰り道、今の君と例え逸れたとしても僕はきっと息を切らして探してしまう。大袈裟だ、心配性だと笑う君を見つけて一緒に帰ろうと手を繋ぎたい。そんなもの、もうユーリには必要がないと分かっていても。気付かない振りをしていたかった。

 束縛すればする程、僕が愛した君らしさが無くなってしまう。けれど手を離すと見えなくなる背が怖い。しっかりしないと、気付かぬ内に止まっていた呼吸。深く息を吸って、鏡越しにユーリに微笑んだ。

「似合ってる」

 僕の心境を知ってか知らずか、どうも、と小さな返事。

「――てか、着付け、やっぱ手慣れてんだな」 

 帯をどう結ぼうか少し悩んで、自分と一緒よりも、後ろを向いたときは違う方が自然でいいかと片バサミに結んでからユーリの聲に応えた。

「祭りの準備とか手伝ってたからね」 

 ふうん、と詰まらなさそうに、鏡越しに僕をジトリと見る。

 着付けも終り、出発時間を見積もろうと時計を見やるがユーリは暫く姿見に映る自分を見ていた。

 もう少し華やかな浴衣であれば、完全に女性と見間違えてしまいそうなくらい艶やかで、団子に結ばれる予定の長い髪が肩を伝い、一本一本がベランダからの光を反射させている。

 吸い込まれそうな深い紫の瞳が揺れ、申し訳程度に日焼けした顔と、真っ白な胸元の色の僅かな対比や、骨っぽくて薄い肩、髪の束の隙間から見え隠れする項も何もかもが扇情的で顔に熱が集まるのが分かった。

 中学生じゃないのだから、と自分の理性に言い聞かせて平然を保ち、小さく息を吸い込んだ。何時から行く?と鏡の中のユーリと目を合わせて聲をかけるがユーリの様子が少しだけ變だった。

 帯をキツく締め過ぎただろうかと、近寄った僕の手がユーリに掴まれて思わず驚きの聲が上がる。

 すると薄い唇が開き、顔もこちらに向けなおされる。何処かで風が吹いて、風鈴の音が聞こえた、そんな気がした。

 重々しく、云おうか云わないで置こうかと何度か躓き乍ら、やがて何か小さな決心でもしたかのように開かれ、ユーリは言葉を紡いだ。

 

「……カノジョとかにも、してあげた?」

 

 伏せられた瞳が、彼の心情を物語っていた。

 思うと、彼の口から直接的に僕の元カノジョに対する問いを聞いた事が無い。

 而して性への劣等感や、焦燥感も。いつも分かり難い言葉で少しのヤキモチ程度に伝えられるそれが、今日はあまりにも直接的で、ユーリらしくなかったのだ。

 少しポカンとしていると、ユーリは再び口を閉じてしまう。

 ――やっぱりいい、そうして部屋の中は再び静まりかえった。

「……してないよ」

 僕は、嘘をついた。ユーリが聞きたくなかった言葉を、押し殺したのだ。数年前、夏祭りの前日に着付けに自信がないと話した彼女に、僕がしてあげるよと当日着させてやった。女の子らしい、柔らかな色使いの花柄の浴衣。髪も結ってやり、大層喜ばれた。

 恥ずかしげに「可愛い?」と聞かれ、笑って頷いた。

 もう今となっては昔の話だ。僕にとってその過去の思い出は取るに足らないような物だった。然し、ユーリの中ではきっと違うだろう。彼は眉も動かさずに、僕の言葉を聞くと頷いて、「そうか」とだけ云った。

 何か云ってくるものだと思っていたが、彼はそのまま鏡に映った自分自身を見て、微動だにしなかった眉はくしゃりと歪められる。

「もういい」

 やっぱり、私服でいい、とユーリは帯をとき始める。

 戀人につかれる、優しい嘘が僕は大嫌いだった。

 だって、気づかないわけがないのだ。僕は気づかれると分かってい乍ら、それでも言葉を濁した。きっとその答えが来ると、分かっていてユーリも僕に聞いたのだろう。僕はどう答えるべきだったのか、本当のことを云えば良かったのか。

 初めて彼の身体を愛したときだって、思い返してみれば僕はユーリに變じゃないかとか何度も確認された。變じゃないよ、綺麗だと瞼にキスをすると胸を撫で下ろした様に「よかった」と微笑んでいた。恥ずかしさ故の確認だと、そう思っていたのだ。けれどそれは違って、きっとユーリは女性との経験がある僕にとって男である自分の身体を晒すと云うのはとても怖い事だったんじゃないかだとか。

 そんなことで恐れを抱いたりする子じゃないのは分かっている。けれども、僕がユーリとのこれからが見えないのと同じで、ここまで開いた年齢差で、先生と生徒で、何と云っても世間からしてみると普通じゃないとされる同性で、結婚を許される訳でもなければ子を生すと云う事も出来る訳が無い。

 僕の初めてがユーリであったならば、彼の怖さも和らげる事が出来たのか。

 この恐れはずっと自分ばかりがそうなのだと思っていた。だからこそユーリが逃げれる様に手も繋がずに、少し距離をとり乍ら歩いていた。執着なんて惨めったらしくて、これからがあるユーリには重りでしかなくて。

 でもユーリは、僕しか知らない。この子は既に、そんな気を僕が遣わなくとも既に苦しんでいたのでは無いだろうかと。

 ユーリは僕の知らない所で、この不毛な関係に、最初から苦しんでいたのだろうか。

 ごめん――自分の言葉なのに、自分の聲じゃないみたいだった。自分自身の謝罪の言葉に、胸が重く脈打ったのが分かる。認めて、了ったのだ。自分が彼を苦しめていると云う事を。

 呼吸が短くなって、どうしよう、どうしようと考えを張り巡らせているのが分かる。

 自分の中でユーリとの関係を明確にしなかったくせに、こんな状態になって目の前の彼をどうしたらいいのか、何処から間違っていたのかも分からなくて修正の余地もなく唇を噛んだ。

「……おい、フレン?」

 責任を取ると豪語していたのに、そんな自信も今となっては微塵もなかった。だって、ユーリは其れを望んでいるのだろうか。

 僕はずっと自分勝手に彼を振り回していたのかと思うと今までの自分の行動を全てなかった事にしたいとさえ思う。

 ユーリのことが好きだった。嘘なんかじゃない、遊びでもない。でもそれが彼を傷つけてしまう様な事ならば自ら身を引こうと決めたばかりだったと云うのに。 

「……ユーリ、あの、ぼく」

 君の為なら何でも出来ると思っていたのに、別れを切り出す事も出来ずに深く俯いた。

 また、再会したばかりの時みたいに他人の様に扱われるのだろうか。外でも先生と呼ばれ、自分も彼をローウェルくんと呼ぶのだろうかと思うと想像だけで目の奥が熱くなって情けなく鼻が詰まるのが分かった。

 何故か戸惑っているユーリの聲が遠い意識の外で聞こえる。嗚呼、そうか、余りに僕の察しがいいから優しいユーリは誤摩化そうとしているのだろうと思うと余計に悲しくなって、遂にその気持ちが言葉になって口から漏れた。

「――……どこにもいかないでくれ」

 ユーリを抱き締めて、肩に流れている髪に顔を埋めた。この人を今更手放すなんて出来なかった。やっと一緒になれたのだ、幸せだった。

 周りからどう思われたっていい、構わないと思った。ユーリしか頭になくて、子供みたいに縋って離れたくないと涙聲を上げるとユーリがバシバシと背中を叩いてくる。

 嗚呼、本当はこうして触れ合う事も嫌だったのだろうか。なのにユーリはいつも僕に身体を許していてくれていた、全ては惨めな僕への慈悲だった。

 一瞬、それでも良かったと誰かが呟く、否、そんな訳がない。万が一、僕の気持ちが伝わっていなかったのならばどれだけこの気持ちが真剣な者なのか伝えなければ。

 「ユーリ……っ僕は君に暴力を振るわれたって、離す気は!」

束縛だと思われても良い、重いと罵られたって。ユーリの身体をより一層強く抱き締め、半ば自棄になって聲を張り上げた――その時。

 

「~~だぁーっ、そうじゃねぇ馬鹿! ただでさえ帯で締められてんのに窒息死させっ気か、こンのド阿呆!」

 

 パァン、と綺麗な破裂音。側頭部を手の平で叩かれた、と分かるまでに少しの時間を要した。力が緩み、腕から開放されたユーリは青い顔でゼェゼェと肩で息をする。

「ユーリ……」

「はぁ……お前が何勘違いしてんのかしんねぇけど、別にそんな深い意味はねぇし、だな……」

 と、ユーリが酸素を取り込むが、再び僕の顔を見てギョッと目を見開く。

 じわり、と視界の箸から少しずつ景色が歪んだ。何か慌ててユーリが僕に聲をかけて、目尻を浴衣の袖で拭ってくれる。自分は泣いているのかと、その時初めて気がついた。

 頭を撫でて下から見上げてくるユーリを見て、また少し涙が滲んで、ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らして目の前のユーリがぼやけてく。

 慌てる表情が、優しかったから。親に怒られた後、優しく聲を掛けられときに泣きそうになる様な感覚と少し似ていた。

「何泣いてんだよ、ったく……お前いい歳してこんな事で泣くなよ……せっかくの色男がぶっさいくになってんぞ」

「こんな事じゃないっ……僕が、もしも、ずっとユーリを束縛して苦しめていたのかって、思ったらっ」

「あーもう、分かった、分かったから!」

 困り果てた様に、どんどん溢れてくる僕の涙をユーリが手を休めずにはらってくれた。情けないなんて百も承知であった。けれども、こんなに優しい手をしたユーリが他の誰かの手を握るのかと思うと涙も止めれなかったし、目の前のユーリに甘える事しか出来なかった。

 あの車の中での事を思い出す。彼の涙を一粒ずつ拭って、初めてキスをした時の事。

 心に沸き上がったのは独占欲や、支配欲などの汚いものだけだっただろうか。

 いいや、違うと、はっきり胸を張って今なら言える。

 僕は君に戀をしていましたと。僕は君と、戀人でありたかったのだ。戀人だった。

 君は僕の最愛の人だから。

「……僕がユーリを、ずっと苦しめていたって……なにが?」

「……っ僕は、ユーリと同じ男だし、だからやっぱ、僕の昔の戀人とかについて、ユーリは思う事とかあって、でもユーリには、ぼくがいるから、どこかに行く事も出来ないし……かの女、とか、そっちの方が普通の幸せを築けるんじゃないかって……僕は、ユーリが好きだから、そっちを望む方が正しいんじゃないかって」

「……フレン」

 ユーリは若くて綺麗で、これから先も出なんて沢山ある。彼に惹かれる女性は多いだろう、今から僕が身を引けば遅くはないとさえ思った。情けない僕にユーリが歩み寄って、突き放した筈の身体を抱き締めてくれる。而して、馬鹿だなぁと笑った聲が聞こえた。

「んなことずっと考えてたのか?」

「……でも、大事な事だから」

「大事でも、何でもねぇよ。……オレがお前の傍から離れたいって仕草、一度でも見せた事あったか? これでも下手なりに、愛情表現して来たつもりだったんだけど」

 少し呆れた様な笑みを浮かべ、ポスンとユーリの身体が僕に凭れる形となった。引っ付いた胸が、お互いの鼓動を混ぜ合って、ユーリの少し早まった鼓動が聞こえる。

 背に回された腕が僕の浴衣を掴んで、「こんなにベタ惚れにさせた当事者が良くそんなこと言えるな」とボソボソとした聲が聞こえて、聲を掛けようとした口がユーリによって塞がれて小さくリップ音が部屋に取り残された。

「オレだって迷う事もある。顔もスタイルも馬鹿みたいに良けりゃ頭もいい。面倒見もいいし、人から聞くアンタの印象が悪かった事なんて一度もなかった。今も昔も自慢の幼なじみだって、兄貴分だとも云える。お前の成功は自分の事みたいに嬉しいし、幸せだった。そんなお前が、態々こんな取り柄もない様なガキ一人に人生狂わされるのも馬鹿らしいし、いつか身を引こうって思った事もないとは云えないんだよ、其れも此れもアンタの事が好きだから。でもそれをしなかったのは、出来なかったのは、お前の元カノの事思うだけでもハラワタ煮えくり返りそうなのに、オレが誰よりも先にお前に大切だって云われたのに……セックスん時に未だに挿れられなくったって、他の女がお前にキスされたりセックスしたりすんのかと思うと、嫌で、嫌で仕方がない。フレンが好きなのはオレなんだって、自惚れてんのは分かるけど、アンタを信じてるから不安になったりヤキモチも妬くさ。……もう嫌なんだよ、お前に、親戚の子供みたいに扱われたりすんのも、離れ離れになるのも。懲り懲りなんだよ、もう、アンタに置いてかれたくない。アンタの体温も、仕草も、タバコの匂いも銘柄も癖も何もかも怖いくらい覚えてるよ。アンタがオレのこと大事にしてくれてるのも、ちゃんと分かってる。束縛って云い方が駄目なんだろ、いいじゃねぇか、愛してるじゃ駄目なのか? 大人って変だ。そんなの、気遣いなんか云わねぇよ。オレが若いからってなんだよ、そんなことでオレはフレンに信じてさえも貰えねぇのかよ」

 

 ここまで云わねぇと分かんないのか、耳まで真っ赤にしたユーリが背伸びをして、グリグリと顔を押し付けて唸った。じゃあ、さっきの「彼女にも着付けたのか」という言葉は――彼のヤキモチ故の。

 思わぬ所で自分の思っていた事を全て吐き出してしまい、其れも此れも全部勘違いで、その上年下の――戀人に、受け止められて抱き締められて、慰められて。馬鹿みたいだ、と少し笑った。

 けれどその笑みは自嘲のものでもなんでもなかった。

 脅えていた自分が、やっと誰かに手を取られて家に帰るようだった。

「ユーリ」

 もう駄目だ、と心が訴えた。好きだと溢れた感情が、言葉にもならなくて、次こそは痛くない様に抑え乍らも力一杯に抱き締めた。すぐそこにある、真っ赤に熟れた耳に舌を這わせると観念した様な瞳がこちらに向けられ、それは少し怒っている風にも見える。

「……なに」

「……愛してる。君が好きだ、大好きだ」

「――……知ってる」

 一瞬固まった彼が、雪解けの瞬間に底から現れた白い花のように微笑む。

 尖った唇に触れるか触れないかの距離で囁き合った後、「キスがしたい」と強請れば、目が細められて恐る恐る舌が伸びて僕の唇に触れる。

 伸ばされた舌をそのまま絡めとり、歯列をなぞって彼が敏感な上顎を舌の先でくすぐれば、くぐもった喘ぎ聲まで聞こえる。唾液が分泌される度にユーリの口内へ注ぐ様に舌を動かしてやり、コクっと喉を上下にさせて、長い睫毛には涙の粒がついてキラキラと光った。

 お互いの混ざり合った熱い唾液を甘いシロップを堪能するみたいにして悦んで欲し、表情を蕩けさせるユーリが目の前にいて、開けた浴衣も今の僕には毒に近い。

 そこからは我慢出来なくて。

 彼が帯を緩めた事によって大きく開いた合わせから手を入れる。驚いた様に跳ねた肩へ歯を当てるみたいにして噛み付き、そのまま唇を押し当てると吸い付いて痕を残した。

 白い肌の下で鬱血し、色付くキスマーク。そう云えば、見られると拙いと云った事情から彼に一度も施した事が無かった。

 そこに再び甘く噛み付くと、小さく喘ぐユーリの背が背後の鏡に映っており、鏡の存在をすっかり忘れているらしいユーリは足を無自覚に開いて行く様を僕に見せつける。

「ちょっバカっ、オレ今そういうんじゃっ」

 怒るぞ、と云った風な口ぶりの割に、矢張り身体の若さが邪魔するのか無意識に下半身を擦り合せて少しずつ腰が揺れる。耳に僕の吐息がかかる度に淫猥な事を期待している身体。ピトリとくっ付けられた股間が擦れて、ユーリのものが既に硬くなっているのが分かる。而してまた、自分のも。

 臀部はキュッと時折引き締まって、この子はもう僕しか満足させてやる事が出来ないんじゃないかと自惚れてみたりもする。

 身をよじる度に皺くちゃになっていく浴衣。

 下の裾の方を捲り上げて下着をずらせば、濡れて震える淡い色をした性器は若干頭を擡げており、取り出した際に手の甲を掠めた。

 直接的な感覚に思わず逃げ腰となったユーリを追い込む様に、内股になりつつある足の間へ自分の足をするりと挟み込む。グリグリと太股で睾丸を転がす様に揉めば途端に嬌声が上がって、尿道からは唾液に次いで甘そうな愛液が滲んでプクリと粒を作る。

「フ、レっひっあ、ああッ、も、やッあっ!」

 そこに手の動きも加え、直接ユーリの種子を揉みこむみたいに弾力を楽しみ乍ら、皮膚の中の大切な臓器の場所をぐりゅ、と押して變えてやる。トロリと手に暖かな雫が垂れて、糸を引くそれはユーリの先走りであった。

 敏感な身体に乾いた唇を舐めてて潤す。

 再び彼の耳に舌を這わし、裏の付け根の方へ鼻を押し当てて濃厚な彼の香りを肺一杯に吸い込めば自分の愚息も段々と熱を明確に持ち始めてユーリの、まだ薄らとしか筋肉がついていない薄い腹に狙わずとも先端が押し当てられる形となった。

 そのまま腰を寄せ、彼の腹の上で刺激を得る。

 ユーリも流石に乱れる僕の吐息と腹への濡れた感覚に違和感を覚えたのか、少し顔を下半身へと向けた。そうしてやっと自分の腹に、僕が性器を擦り付けて快感を得ている事を視界に収めて理解すると信じられないと云った様に派手に顔を紅潮させて僕を引き剥がそうとしているのが弱々しく浴衣の袖を握りしめる動作で分かった。

「ぁ、あ、あっ……ん、オレの、ひ、ぁっ、そ、なとこで、こすりつけ……ふ、あっン!」

 昂った頭では何処もかしこも敏感になっているのか、自分の腹の上で自慰の様な事をされていると云う現状だけでユーリが酷く興奮しているのも見て取れた。

 鏡の中の彼を見やれば、尻を突き出して腰を前後に振るう姿。ユーリだって僕の太ももに性器を擦り付けて、自慰に浸っているじゃあないかとは指摘しない。

 だって、パクパクと後孔が収縮をしているのに気付いた僕は、意地悪をする代わりに此処を触らせて貰おうと企んだから。

 僕を見上げるのは、そこを埋めるものを強請る顔。既に白みが混じったユーリの先走りで鵐に濡れた手を後ろに回して後孔に引っ掛ける。

「まっ……今日、まだそこ洗ってないから……っ」

「でもユーリ、欲しいって思ってるんでしょ? ホラ」

「あっ! ン、うそ、だろ、待、……ひあ、あああっ」

 ズブ、と埋め込まれていく二本の指。唾液で濡らされてもいないそこは流石にキツかったが、昨晩は好きな様に指で広げられて虐められてからか大きな抵抗は見られない。

 フレンの指が汚れるから駄目だ、抜け、ヤるならすぐに洗ってくるからと慌てるユーリに背徳感さえも芽生えて衝動が止められない。

 強引に腸壁を押し広げられ、息苦しさは見られる喘ぎの中にでも痛みを感じさせるものは何一つない。その証拠に、駄目だと思い乍らも快感を拾い上げているのか、触ってもいない性器は先程よりも勃ちあがって、彼の腹にぴったりとくっついている。

 それに、別に今更ユーリの何で身体が汚れようとも構いやしなかった。彼は心底、嫌であろうとは思うが。

 少しずつ慣れて行く腸内。貧欲に呑み込もうとするいやらしいに動きに逆らって、壁を押し広げる様に指を開けば真っ赤な肉が見えた。そこは僕の指についていた彼自身のカウパー液によって潤わされて、濡れている。

 而して指だけじゃ足りない、と必死に訴えている。

 けれど、挿入する気はない。最初は最後の砦だの何だと理由を付けていたが、今となってはそれはけじめと變わった。

 僕が彼を愛する事の責任。大人になってから、ここで愛し合おうと決めたから。まだこの身体に無理は強いりたくはないと彼の感じる箇所に指を埋め込んで優しく撫でると紡がれる聲は甘やかで心地良かった。

(……花火はもうベランダから見ようか)

 前立腺を押され、聲が抑えれなくなったユーリを支え乍ら考えた。きっとまた、終った後に小言でも云われるかも知れない。それでもいい、今は愛し合いたい――。

「――気持ちいい? ユーリ」

 何度も壊れた様に頷く戀人の瞼にキスをして、太ももに彼の熱がかかるのを感じた。

 

 

 

 

 

 4

 

「――フレン先生! このプリント、クラスに配っといてください。修正箇所見直してさっき刷り終えまして」

 始業式を終え、生徒が教室に帰ってから教師は一度職員室に戻ると、再び散り散りに自分のクラスへと向かう。その途中、後ろから自分より年上の女性教員に聲を掛けられてフレンは足を止めた。

 刷りたての温かなプリントの束を受け取り、分かりましたと会釈を返す。

「夏休みはどうでした?」

 挨拶の様に挟まれる会話。ええ、ゆっくり出来てよかったですと在り来たりな返事ではあったが、フレンが浮かべた笑顔が大分落ち着いている様に見え、こちらにやって来てから気苦労もあっただろうと心配していた女性教員は安心した様に「そう」と微笑んだ。

 実際、この若者は偶に何か思い耽た様な表情を見せる事が目立ち、普段が柔らかな笑顔が多いからそう思うだけかも知れないが、お節介だと分かっていつつも少し心配していたのだ。「職員室の机の上にお土産があるから食べて欲しい」とだけ伝えると、慌てて「有り難うございます」と姿勢を正して礼をする真面目さに笑って教室へと向かう背中を見送る。

 フレン・シーフォはここの教師として、故郷であるこの町に帰って来た。

 穏やかで、静かな所だ。住み慣れた場所だけあって、以前暮らしていた大都会とは断然違う。

 息を潜めなくとも鳥や虫の聲は聞こえるし、窓から入り込む太陽だって無邪気に思えた。心は楽だし、気を張る事だって無くなった。

 一学年、二クラス。この近所では唯一の高校と云うだけあって、集まる生徒も少ない訳では無い。フレンはそこのニ年ニ組を担当しており、クラスは比較的平和。目立った不良もいなければ、皆仲良く高校生活を穏やかに楽しむ子達ばかり。今時、珍しいのだろうか。

 自分が以前働いていた職場では、やはり大きな学園と云うだけあって、それなりに問題はあったがここではまるで無かった。

 コツ、コツと靴底が廊下を鳴らす。廊下には、誰もいない。静かな空間を暖かな風を切って歩いていると、曲がり角から誰かの影が見える。生徒の、制服。

 風で揺れるのは――結われた黒髪。

「……ローウェルくん」

 フレンが思わず、教室に戻りなさいと注意するのも忘れ、立ち止まって名前を呼ぶ。聲に反応し、ピクっと肩が揺れると背が振り返り、そこには矢張り名を呼んだ通りの人物――ユーリ・ローウェルが佇んでいた。

 まるで、フレンを待っていたかの様に。

「おはようございます」

 彼は、フレンが担任を務めるクラスの生徒であった。

 小さい乍らも留学生などを受け入れる事もあってか、身成に関する校則が然程厳しくない当校だが、それでもここまで堂々と髪を伸ばす男子生徒も彼以外いなかった。

 そんなユーリが髪を伸ばす理由、それもこれも、フレンは知っていた。

 彼らは先生と生徒と云う関係であり、それだけでなく、幼なじみでもあるからである。

「駄目じゃないか、出歩いてちゃ。僕じゃなかったら叱られてたよ」

「先生が来るかなって、思ってたから」

 ビンゴだった、そう云って笑い、友達にはトイレと云って出て来たから一緒に教室へ行こうと誘われて断れもせずにフレンが頷いた。

 今日は確か、夜に心霊番組の特集があったとユーリが云って、見るか見ないかの話を自分の数歩先で話し乍ら歩く。最近あの手の番組はマンネリ化してるだの、でも心霊写真特集とかもあるからとフレンの意見などちっとも聞かずに話を進め、昔からそういう番組が好きだなぁとフレンは目を細めると「あまり怖いの見てたら、そういうのが寄ってくるよと」聲をかけた。

 するとユーリが振り返り、後ろで手を組んだままニタニタと悪い子供みたいに笑う。

 フレンも釣られて立ち止まれば、下から見上げる様に「怖いんだ?」とユーリが問うた。

 ここで怖くないよと否定すれば、ユーリが「嘘つけ」と嬉々としてからかっているのが目に見えていたフレンはニッコリと笑みを浮かべ、

「そうだね、怖いなぁ」

 と一層態とらしく云って、ユーリの頭を一度ポンと叩くと彼を追い越し、先々と廊下を歩いて行く。面白くない、と云う様な顔を浮かべたユーリが小走りでその背中を追いかけて、足音を刻んだ。

 

 何も變わらない日常。

 變化なんてない在り来たりの日々。

 

 而して變わらない二人の関係。

 

「――せんせい」

 

 ユーリが呼びかけ、今度はフレンが振り向いた。

 どうしたの、と首を傾げれば自分のすぐ後ろで立ち止まったユーリが少しだけ頬を染めて目を細める。

 

 あの日――フレンとユーリは熱も冷めぬまま共に風呂場へゆき、触れ合い乍ら身体を隈無く洗い合った。ベランダに出て夜風に吹かれれば中々の距離で花火が見ることが出来、二人は驚きと共に喜びの聲を上げる。そうして外では絶対に出来ないキスをして、手を繋ぎ、寄り添って花火を見上げた。

 来年も一緒に見ような、とユーリに微笑まれ、来年も一緒にいる事が当たり前かの様に聲を掛けられた事が嬉しく、勿論だとフレンはユーリの手を強く握り返した。

 洗った浴衣を干し、再び夜にはお互いの体温を求め合った。君の傍にいたい、愛していると。どうしようもないくらいに、そう、今まで溜め込んでいた気持ちを全て曝け出した夜の事。

 何も言わずに頷いて抱き締め返してくれた細い腕だって。

 それはこの世の何よりも大切で、自分がどうなろうと守りたいと思った暖かさであった。

 變わってなんてなかった。今も昔も、自分が守ろうと誓ったのはユーリ一人であった。涙聲で愛してるよと囁いた僕の頭を撫でたのは目の前の彼であり、自分達の歪な関係を哀れだと一度も感じた事なんてないと話したユーリが頬にキスをした。

 同性だろうと、教師と生徒だろうと。確かにそれは自分達が無闇に言いふらす事でもないだろうし、後者の理由もあって、今現在バレるとお前の社会的地位が危ういからオレは絶対に阻止したいけど――ユーリが涙の滲んだ僕の目尻を拭って、額をひっつける。

 普通にヤキモチ妬いたり、相手の為に何かをしてあげたいって思ったり、他の誰よりもその人の一番でありたいって思ったり、愛しいって思ったり、寂しくなったり、會いたいって思う相手が同性ってだけで、周りに何だかんだと云われる筋合いなんてないと思ってる。

 オレがガキで、考えが浅いからそう思うだけなのかも知れないけど、でもそれがガキって言うなら、オレはガキのままでいい。

 心の奥底から、そう思えない奴と一緒にいるより、そう思える奴と出會えた事に素直に幸せだって思いたい。

 別に人に言えなくたっていいよ、子供が出来なくたっていい。普通の幸せって何なんだろうな、それを語る奴らの中じゃ好きってだけじゃ駄目なんだろうな。難しいな。

 結婚式も、指輪も、神様への誓いなんて必要ない。どれもこれも、お前が傍にいてくれることに、代わるものなんて一つもない。

 同性だから、歳の差があるから……そんなのどうだっていい。お前に傍にいて欲しい。それでも幸せじゃないって誰かが言うなら、幸せにならなくていい。

『オレの今までを支えてくれて、出會ってくれてありがとう』

 この子を愛せて、この子と出會えて良かった。

 君を幸せに出来る存在で良かった。

 

 

「今日も、一緒に帰ろうな」

 

 

 特別な約束。

 敵わないなとフレンが頷き、浮かべたその笑顔は――最愛の戀人に向ける、優しい笑みだった。

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