五月雨のシェーナ

TOV フレン×ケーキ屋ユーリ

​現パロです。モブが出てきます

「あの子、甘いものはそこまで好きじゃなかったの」

 

 白髪混じりの、細い線一本で描かれた様な果敢無げな老媼が呟いた。

 その日も厭な天気でした。春も終り、霖雨が町を散々に泣かせてゆきます。湿った空気は少しばかり息苦しく、不快感を与え、額に張り付く前髪が鬱陶しかった。

 数年前のこの時期に、母が死んだのを思い出しました。そして、今、目の前にある黒斑の枠に囲まれた写真に写る、生真面目そうな男もまた、つい先日、誰も知らぬ所で床につきて眼を眠りました。

 話したのは、もう数ヶ月も前でした。最後に会った時、男は何か云いた気で、私は其れを避けるように突き放したのです。

 あの時、男は何を言いたかったのか。

 男の遺品の中に、日記が何冊も出てきたのだと。その頁に度々挟み込まれる、洋菓子店の領収書。最後の一冊、頁を捲る度に乱雑になっていく文字は辛うじて読める物ばかりで、その殆どが『生きたい』と、そう綴られていました。

 最後に日記が記された日と、同日の日付が印刷された洋菓子店の――其れは確か、数ヶ月振りに男が店に訪れ、私が顔も見ない様にして避けた“あの日”だった。

 文字を見る限り、ペンを握るのもやっとだったと伺えました。そんな足取りで、このマンションから近くはない、あの小さな洋菓子店まで彼は来たのかと。

 どんな思いだったのでしょう、何を言いに来たのでしょうか。

 私はあの男の名字しか知らず、名前どころか、仕事が何だったのかさえも知らなかったのです。

 勝手に喋る、老媼の話しを聞いてみれば小さな画塾の講師だったそうで。

 両親の反対を押し切って画家になるのだと云って、このコンクリートばかりの灰色の空の下で生きることを選んだらしいのです。そして両親が反対した理由は、男の進路についてではなく、男が子供の頃から抱える重い病気を心配してでの事で。

 云われてみれば、日に当たったこともない様な白い顔をしていましたね。少し話し込むだけでよく咳き込んで、大丈夫かと問えば眼を細めて「平気だ」と笑うのですよ。

 昔から変わり者だと云われて友達は少なかったそう。だから、この老媼は――男の、母親は、自分の息子に“私”の様な同性の知人が居ると知って大層喜びました。

「あの子とどんなお話ししてくれたの?」

 少時して、其の声がやっと鼓膜に流れ込み、何か言葉に出来ぬ様な物が己の首を絞めたのですけれど「そうですねえ」と記憶の中の会話を探り乍ら頷いて見せて、私も苦しむ様な動きは何一つ見せはしませんでした。

 返事を聴くと皺まみれの老媼の顔が愛らしい笑顔を浮かべて、私の聲に耳を傾けました。

 私がもしも、男の病気の事を知っていたら。彼は、この冷たい部屋で死ぬ事もなかったのでしょうか。肉が腐って、其の異臭でやっと人に気付いてもらえる様な最期など迎えずに済んだのだとしたら。

 私がもしも、男の事を知ろうとしていれば。あんな態度も取らず、云うべき返事を返して、男に心残りも作らずに済んだのでしょうか。

 心の中で、誰かが「お前が殺した様なものだよ」と嗤いました。

 そうか――そうかも知れない。

 己は、僕は、私は、オレは。言い訳をしようとするそれぞれの一人称、重なった皮の一枚一枚を丁寧に剥いで、その核で涙を流す、果物の種の様な硬い芯を穿り出して五月蝿いと怒鳴り散らして嗤い声が刃物の様なものを突き立てました。

 肉に包丁を突き立てて、返り血を浴びる事だけが人を殺すという事なのでしょうか。生へと続いたかも知れない道を遮った事も、手を伸ばす事もせず、黙って突き放したことも。

 自分は同性愛者であり、“私”をそういう対象で見ていると男に告白された事に僅かな嫌悪感と裏切られた様な感情を抱いた薄情な私も。

 全部全部、男の死に繋がっていたのではないか。

 嗤った其れは、私の聲でした。

 

 梅雨に季節が移り変わる。雨音が、夏の訪れを脅える様に身を振るわせた。

 

『五月雨は辛気臭くて嫌いなんだ』

 

 いつかの記憶の男が、スケッチブックに私の姿を描き乍ら話した。完成する絵はいつも、絵心のない私でも分かるくらい上等なもので、「アンタ絵描きになれるよ」なんて褒めたりもしたっけなあ、と。男は私に自分の事を何一つ話さなかった。ただのサラリーマンだって聴いていたの。子供に絵を教える先生だったなんて知らなかった。

 描かれる私の美しい事。ちょっと美化し過ぎじゃあないか、笑えば君は綺麗だと。新しい絵が出来る度に携帯の待ち受けにしようと云うと照れくさそうにして、それでも優しげな瞳で私を見つめてくれていましたね。

 初めて会った時、男はお客さんで、私は洋菓子店の店員。

 初対面で男は私の顔をジッと見ていたのです。首を傾げたら、慌てて目を逸らしてオススメのケーキはどれかと聴かれ、ふかふかのクラシックショコラを勧めました。男は其れから、ずうと、其ればかり買っていくのです。

 打ち解け合うのは早かった。中学生の頃は不登校に、今通っている高校でだって上手く馴染めない、そう告げれば男も「自分もそうだった」と。

 自然と波長が合うのです。いつの間にか私は店で男の事を待っていました。

 ピアスまみれで穴だらけの私の耳を見ても、男は不良だとか、他の大人みたいに私を責めたことは一度もなかった。髪を染めようかと云った話題には猛反対していましたけれど。

 貴方のお陰でしょうか、高校にだって足を運ぶ事が増えました。通信制に変えようかと検討する事も無くなりました。

 男と話す時みたいに、自然に笑えば変わり者だと遠ざけられる事も減って行きました。中学生のとき、寂しさから産まれ出した数々のピアスだって、新しく穴が増える事も無くなっていったのです。高校であった事を話すと男は幸せそうに笑って、黙って聴いてくれた。

 修学旅行のお土産だと、あげたペンギンのキーホルダーをね、幼い子供みたいに喜んでは「大事にする」って。

 

 そして、二人で遊んだ帰り道に「一目惚れだった」と生真面目な顔が私に告げたのです。揺れる男の短い髪から目も離せずに、返事は要らないからの後に続いた「ごめん」に私は。

 

 何だ、最初から、私を置いて死ぬつもりだったんじゃあないか。

 最期の日記に、綴られていました。

 僕は狡い大人だ。明日がない事も隠し続け、この肉体が死んだ後も、君の記憶の中で生きようとしている。

 けれど、矛盾はしているが、君の幸せな未来を――。

 続きは涙と思しき、何かでインクが滲んで読めなかったのですけれど。

 男の死を忘れてはいけない様な気がしました。これだけで償いが出来るとは思わなかったのですけれど、そうして生きる事で彼もまた、生きれるのならと。

 

 今、私は、この瞬間から人殺しになったのです。

 遺品にあった、塗装も剥げたペンギンのキーホルダーを私は持ち帰った。

 

「――息子さんは、優しくて、良い人でしたよ」

 

 そう云った瞬間、堰が切れた様に泣き崩れた老媼の背を――オレは、さする事も出来なかった。




 

 ◇


 

 

「フレンくんてつまんない」

 

 話しがあると呼び出されて向かったのは、大学から二駅程、三番出口から地上に上がってすぐにある珈琲のチェーン店だった。

 そこは相も変わらず混雑している。駅前と云う事もあって、この時間帯は学校帰りと見られる女子高生まで屯しており、何故か呼び出されると云うとそこばかり連れて行かれ今日も正直うんざりしていた。

 僕が高校生の時の帰り道、買い食いするとしても駄菓子屋で購入する六十円かそこらの小さなカップラーメンであったし、部活帰りなんて、其れこそ同級生の部員達と行きつけの、埃っぽい中華屋で“夕食前の間食”をする程度であった。大食いを競ってる訳でもないのに、胃の隙間を埋めるみたいにして当時はまだまだ成長期だった僕は何杯もおかわりしたっけ。

 大きな夕暮れの見える、電線も少ない田んぼばかりの道で友人と別れて、家に帰って再び何事もなかった様に大量の白ご飯を母親によそって貰うみたいな。

 

 そんな寄り道しか知らない僕は、都会の子供は胃袋が小さいのだなあと、混雑している店内でちらほら見かける男子高校生と思しき背中を眺めて、代わりに頼んで貰った甘い汁を啜った。

 何故女性はこう云った場所を好むのだろう。珈琲のチェーン店と云う割に周りが頼んでいる飲み物は珈琲とは思えない。友人に云えば、これだから田舎者はと呆れられて、問題の解決には至らなかったのだ。

 確かに味は美味しいに分類される。僕的には、何かもう少しスパイシーな刺激が欲しいけれど。

 店の混雑具合もあるが、商品名が長過ぎるのも気軽に行けない理由の一つでもあった。この長ったらしい呪文の様な商品名を幾つも覚える事が出来るのに、どうして暗記系ばかりの問題しか試験に出ない教科の単位を目の前で不貞腐れている女性、いや、僕の彼女は落とす事が出来るのだろうか。

 

「……つまらない……そう云う人の罵り方もあるのか。うん、ショックだ」

「はあ?」

「あ、いや、ごめん。気にせず罵ってくれ」

「アンタ馬鹿にしてんの?!」

 

 大学二年生となり、僕は一つの難関を前にしていた。

 去年の学園祭で、〈イケメンコンテスト〉だか何だと云うものに同じ学科の友人達に何も聞かされないまま引きずって来られて、強引に出場させられたのが全ての元凶である。普段は「無印良品の店員かお前は」と比喩される様な服装を好む僕であるが――無印良品も実際大好きなので間違ってはいない――先輩達に眼鏡を奪われて服を脱がされたかと思うと、生きてきて一度も着た事のない様な派手な色の上着だのシャツだのを着せられてギャアギャアと騒ぎ立てた。

 少しだらしないとも云える服を強引に着せられ、香水を撒かれて、髪をワックスで塗り固められ。終った後は、犯された様な消失感に「婿に行けない」と友人達を一発ずつ殴ろうとしたが、直後鏡に映った自分の姿に再び暴れた。

 ただの、不良じゃあないか――その絶叫は〈イケメンコンテスト〉の会場となるホールに響き渡ったのであった。

 

 面白半分に見せ物にされ、結局出場させられた僕は口元に持って来られたマイクに嫌々学科名と名前を告げ、そうして馬鹿げた事に優勝までしてしまったのだから世も末である。

 自分の顔を一度も褒められた事なんてなかった。生まれ育った田舎町は子供の頃からの顔馴染みで、こんな風な扱いを受けたのは大学生と成ってからで大層戸惑ったものだ。今までもこれからも、地味に真面目に生きようと思っていた僕であるのに〈イケメンコンテスト〉が終った後日から女性に迫られて「可愛い」だの「王子様みたい」だのと四方八方からもみくちゃにされ自分の穏やかな人生計画表が燃える音がした。

 彼女だとか、そういうのを一切考えても居なかった僕は聞かれるままにメールアドレスを教えて――そうする事で周りが静かになるからである――付き合ってみないか、と話を持ちかけてきた女性に適当に頷き――これも静かになるからだ――そして足早に彼女を作って、周りの騒ぎも一旦治まり落ち着き始めた頃。

 その彼女が何やらご立腹で、僕に話しがあると呼び出した。

「えっちだって最後にしたの、あれいつよ!」

「女性がそういう話題をこんな人前でするのは感心しないな」

「友達なんて記念日には彼氏にブランドものの財布貰ってホテルのご飯とか連れていってもらってたのに、アンタは何よあれ! 花束?! 馬鹿にしてる!」

「馬鹿にしたつもりはなかったんだけど、そう捉える様な行動をしたとしたなら僕の勉強不足だった。申し訳ない。ごめん」

「そうじゃないでしょ?!」

「それより、政治学の単位も落とすこと確定したんだろ。出席くらいの事がどうして出来ないんだ……まだ前期も終ってないのにそんな事でどうする。君の学費を払ってくれている両親に申し訳ないと思わないのか。教授も課題を出してくれたんだろう? 何故出さなかったんだ。必修は出席しているだろうな? 君、一年から二年に上がる時も必修ギリギリだったよね。そんなことで卒業出来ると思っているのか。前期の内にとれるものも取らないで、えっちだの記念日だの……君にそんな暇はあるの?」

 はあ、と大きな溜め息を吐いてカップの残りを一気に飲み干した。ノートなら見せてやれるし、課題も分からないのなら教えてやれる事だって出来る。午前の授業の出席が難しいのならモーニングコールだってかけてやるのに、目の前の自分の彼女と云うべき存在の女性は何一つ努力をしない。

 だらし無いのは否めないが、彼女の事は可愛らしい所もあって好きではあったし、彼女も彼女で僕の見た目と中身の不一致に納得がいかない部分があるらしく、近頃はこう云った言い合いも増えていた。

 口喧嘩に置いて僕は強いと云う訳でもなかったが、ただ現実のあるべき事を告げると彼女は今の様に黙り込んでしまう。自分の今の現状の深刻さがそうやって分かっているのであれば、僕に言われる前にどうにかしたら良いものを。でも、そういう、少し抜けている所も嫌いではなかった。

 自分は人の世話を焼くのが、どうやら好きなのだ。お節介だとか、お人好しだとか。昔から云われて来た様な気もするが、それでも目の前で危ない状況の人が居て、然るべき事をその場で指摘して教えてやるのが優しさだと僕は考えている。甘やかす事が優しだとか、そう云った発想は僕の中にこれっぽっちもなかったのだ。

 そりゃあ別に話した事もない様な人であれば、その場限りの優しさというか、甘やかす事だってするけれど相手が大切であるから、僕はこうして怒りもする。

 

 目の前の彼女に、其れが伝わっているのか、どうなのか。いいや、きっと伝わって。

「フレンくんって冷たい! もういい! 別れる!」

 

 ――いなかったようである。

 

「待ちなよ、僕の云った言葉に何処か間違いがあったのか?」

「そうじゃない! 鬱陶しいの!」

 

 売り言葉に買い言葉とはこの事で、鬱陶しいと云う言葉に堪忍袋の緒が切れた僕は「じゃあ勝手にしろ」と言葉で彼女を突き放した。

 彼女は――僕が金を出した――自分の分の飲み物が入ったカップを掴むと、泣き乍ら外に飛び出し、混雑していた店内は一気に静まり返って僕に視線を向ける。追いかけてたまるものかとこちらに視線を向ける客の一人一人に睨みをきかせて、ドカリと椅子に座り込んで大きな溜め息を吐いた。

 なんでいつも男が悪者扱いなのだ。僕は何か間違えた事をしたか、いいやしてない。もしかしたら今までの行いの中で、不適切な事はあったかも知れないけれど、それは彼女にだって検討する事だ。何も僕ばかりが謝る事ではないと頭を抱えたが、少しずつ熱された頭が冷えて来て、もしかしたら言い過ぎたかも知れないと云う様な思考が自分の頭の中でグルグルと回った。突っ伏した顔を上げたとき、もう自分に視線を向けている客は居らず、先程の様な賑わいを見せていたのを確認して僕はそっと店を出る。

 もうこんな、お洒落な雰囲気の店は懲り懲りだ。実家を囲む緑の田圃が戀しかった。彼女だとか、記念日だとか、セックスも何もかも。つまらなくない男とは何なのだろう。部屋でまったりと、話しでもし乍ら映画を観るだけじゃあいけないのだろうか。お洒落な店も知らないし、有名な珈琲店よりも古びた喫茶店で飲む、お代わり自由のぼやけた味の珈琲の方が僕は好きだが、それはもう、つまらないのだろうか。

 背中を丸めて駅に降りて、電話帳を漁る。電話をかけ、コールが三回。

『はあい、アシェットでございます。お、さ、か、な、くわえたドラ猫、を』

「そういうのは良いから。追いかけなくていいし」

『あ、そう? んで、どうした。つか聞いてよ〜俺今から姉ちゃんのお遣い行くんだけどさ、カロリー低めだけど甘くて美味いケーキ買った来いとか言われて難関過ぎる。んなもん豆腐でも手掴かみで食っとけよなマジで』

 軽快なリズムと共に電話に出た友人に冷たい言葉を浴びせ、受話器の向こうで笑う聲に少しだけ口角が上がった。自分とは違って冗談も言えるし、明るいムードメーカーの様な彼――アシェットは自分が大学で出来た初めての友人であった。

 何か彼女に関する事で困った時には、自分よりも華やかな青春を送って来た彼に相談を持ち掛ける事は多く、普段は面白半分に話題を盛り上げる事の多いアシェットもそういった話題には空気を読んで適切なアドバイスもくれる。本人に直接云う事はなかったが、本当に良き友人であり、自分も遊ぶとなると彼とつるむ事が多かった。

「彼女にふられた」

『えっマジで。飯がうまいな』

 電話をし乍ら財布の中にあるICカードで改札機を通り、人ごみの多いホームを滑る様に歩いて、自宅マンションの最寄り駅に止まってくれる電車を特に何もせずに待つ。

 多分、今追いかけたら彼女の元に間に合う事。自分も少し言い過ぎたかも知れない等とアシェットに告げると『別に良いじゃん。お前に合う女だったら、そんな逆ギレもしないって』と笑われて、追いかけたいと思ってるなら俺に電話する前に勝手に身体が動いてる筈だろと、もっともなことを言われて肩の荷がまた一つ下りる。

 そうだね、そう云うと「フレンはアイツに甘過ぎ」なんて少し怒った聲で、先程の彼女とは正反対のことを言われる。

 今まで喧嘩は何度もした事はあったけれど、意地っ張りな彼女に謝らせるのは何だか可哀想で、いつ謝ろうかとタイミングを見計らってる彼女の頭を撫でて、怒ってないよ、言い過ぎた、ごめんねと続けるのは日常茶飯事だった。

 追いかけないでおこうと思った訳では無い。きっと、あの子の事だから何度も後ろを振り返って、僕の姿を探したんだろう。追いかけて来ない僕にまた寂しくなって、泣いている姿が容易に想像出来た。

 でも、僕が彼女の彼氏である事で、あの子を満たせないのなら、もう今が引き時なんじゃないかと思ったのだ。

 追いかけなかった、と云うよりも追いかける事が出来なかった。僕は真面目だけが取り柄で、見た目が少し目立つくらいのつまらない男なのだ。頭だって、大して良い訳じゃない。真面目だから勉強も怠らないし、スポーツだって不得意な分野は身体に青あざが出来るまで練習した事もある。

 誰かに褒められたいから、とかそういう訳でなく自然と身体が動く。悪さをしようだとか、ズルをしようなんて事も浮かばない、ただただ真面目な——退屈な奴なのだ。

 そりゃ、そうだよな——彼女が僕に云った「つまらない」の意味が深く深く、身に染みて理解出来た。また一つ、自分の厭な所を知って何だか虚しくなって、これから先、彼女が出来た自分を想像するが今回の様なデジャヴしか浮かばないのである。

 万が一、結婚でもして我が子に「パパつまんない」と云われたりでもしたら……嗚呼、こうやってすぐに結婚だとか子供だとかに思考がいくのが既に真面目と云う事なのかも知れない。悪循環に胸が苦しくなって、暫く黙りこんだ僕を見計らってかアシェットが「ううん」と聲を上げた。

『今すぐにでもフレンくんソロ記念日お祝いしてやりたいんだけど、俺ケーキ買ったら深夜のバイトあっからさ』

「……いいよ、そんなの。というかソロ記念日って何なんだ……」

『彼女と別れて気楽な独り身の世界へようこその記念日だよ。いや、もう既にアグエロンも呼んで、後日宅飲みは決定してるから。頭の中で』

 主役である筈の僕を置いて勝手に会話が進む。そしていつもの様に、どうせ僕の家でやる事になるんだろうなと呆れて「吐くのだけは止めてくれよ」と念を押した。

 ドラマで見て来た男女の別れと云うものは、もう少しロマンチックに自分の瞳に映っていた。ところがどうだ、実際の現実と云うものは大したものではない。大学生なんてまだまだ若いもので、自分の心境は友人とこうして会話する事によって穏やかになっていった。

 自分もいつか、必死になれる様な人と出会うのだろうか。素敵だと思った女性とは何人か出会った事はあったが、その人達と付き合いたいと云う感情がすぐに芽生える事もなく、自分に必要なのは時間なのかも知れないなどとぼんやり感じた。

『わぁってるって。あとさ、気が病んでる時は甘いもンが良いぞ』

 軽い言葉をアシェットが返し、勝手に僕が“落ち込んでいる”という前提で話題を持ち掛ける。別に気なんて病んでない事を返すがアシェットは「まあまあ」と意地の悪そうな笑い声を上げるので、挑発に弱い僕がまた彼の話し車に乗っかってしまうのであった。

「甘いものって云ったって……君のお姉さんみたいにケーキとか? 其れより焼き肉でも行った方が元気出そうだ」

『まぁ別にケーキじゃなくっても、アイスとかそんなンでも結構幸せに浸れるって。俺前に振られたとき、直後もつ鍋喰ったけど泣き過ぎて噛み切れなくて思い切りゲロ吐いたから肉は止めとけ』

「君のような失態をするのは君しか居ないと思うけど」

 泣き乍らもつ鍋を食べるアシェットを頭に思い浮かべて、あまりにシュールな光景に吹き出した。「元気でたか」と嬉しそうなアシェットが笑い、お影様でねと一息ついた所に電光掲示板に電車が参りますの文字。

 ケーキなんて食べたのは、高校生の頃が最後かも知れない。特別な日でもない限り、そこまで頻繁に食べるものではないし。

 別に自分は彼がからかう程落ち込んでなどは居ないが——そりゃ、少しは引っ掛かっている事も沢山あるけれど——あまりにアシェットが甘いものを食えとしつこく云うので段々食べたくなってしまうのは何故か。「分かったよ、甘いものだな」と折れる僕に、食い過ぎて太るなよと付け加えられる。

「じゃあ電車が来るから、切るね。有り難う、少し楽になった」

『いいって、いいって。これでまた一冊、フレンくんの綺麗すぎるノートのコピー取らせてもらえるんだし。明日はお前も二限からだろ?』

「あのねえ……はぁ、まあいいけどね。うん、僕も二限からだよ。あと、雨振りそうだから、バイト行くなら傘もって行った方がいいよ」

『……お前俺の母ちゃんと同じ事言うなよ』

 じゃあな、と聲がしたのは電車が来たのとほぼ同時。携帯をポケットに突っ込んで、たった二駅だけ電車に揺られた。大学から程近い所に、僕の部屋がある。実家から持って来たのはテレビとソファくらい。元より映画を観るのが好きで、テレビは高校生の頃に自分で購入した、そこそこ大きな液晶のもの。ソファは母親に居間のソファが邪魔だからと強引に部屋のインテリアとして置かれたものだ。とは言っても、そのソファでダラダラと横たわり乍ら映画を見るのは至福の一時で、貰ってきて良かったと自分も陰ながらに満足していた。広くはない部屋なので、邪魔だと思う事は度々あったが。

 時計を見れば、もう十九時。せっかくの休みであったのに、彼女に呼び出され、アシェットと電話して一日が終わった様な気がした。

 急に呼ばれたものだから、洗濯物も洗い物も済んでない。掃除だってする予定だったのだが、今からすると夜の予習の時間が押してしまうだろうなあと考えて、午前で授業が終る日に回そうと頭を切り替える。常にこうして分刻みなスケジュールをたてておかないと落ち着かない。これはもう、小学校の頃から気がつけばそうであったし、きっと生まれ付きのもの。

 時間を無駄にするのが何だか惜しくて、特に掃除は自分が最も好きな家事の一つでもあるからゆっくりと手間をかけてやっていたいのである。

 これを彼女に熱弁した所、引き気味の目で見られたのが脳裏に浮かんで、矢張りもう少し自分はこの真面目加減をどうにかするべきなのだろう。

 重い身体を引きずるみたいに地上へと上がり、見慣れた現在の僕の町。空を見上げると先程よりも雲の厚さは増して、雨の匂いが仄かに香る。

 雨が降る前に帰ってしまおう。こんな空の様子では、また明日も洗濯物が部屋干しになる。

 すっかり暗くなってしまった帰路に足を踏み入れ、ふと向こう側の道路に目をやった。

 ——ケーキ屋。

 こんな所に、そう云えばあった様な気もする。

 今まで気にも止めなかったが、確かに向こう側には〈ケーキハウス〉と書かれた看板が見えた。落ち込んだ時には、甘いもの。

 今はまだ大丈夫だけれど、家に帰って、一人の時間を味わっている途中にジワジワと彼女との記憶を思い出して泣いてしまうのでは、なんて考えた所で友人の助言通り、此処は甘いものに頼る方が良いのでは無いかと真っ直ぐ帰宅しようとしていた足取りを転換させ、信号を渡って馬鹿真面目にケーキ屋の前まで辿り着いていた。

 店の外観はガラス張りで、中の暖かなオレンジ色の蛍光灯が眩しい。表にあった、イーゼルに凭れ掛かった小さな黒板には本日のオススメ、とあり、下には幾つかのケーキの名前が記されている。今日の誕生日の一覧には、誕生日ケーキを予約したのであろう、客の名前が可愛らしい装飾の枠の中に描かれていた。

 ドアの手前まで近づくだけで香ばしい香りがして、昼飯もろくに食べていなかった僕のお腹は空腹に鳴いた。中を覗き込めば、店員と思われる人影と、奥で作業するパティシエの様な姿があったが、すぐに裏方へと消える。こんな時間でもまだやっているものなのかと感心して、特に祝い事もないのに、この手のケーキ屋に入っていくのは少し緊張した。

 ドアに手をかけ、グッと押し込めば僕の身を出来立ての甘いスポンジの香りが包みこむ。

「いらっしゃいませ」

 低い男性の聲が僕を招き入れ、顔を見るのが照れくさくてすぐに硝子ケースの中にあるケーキに目を移した。

 ディスプレイされたケーキは、流石にこの時間だからか品数も多くはない。ショコラロールにフルーツタルト、さつまいものモンブランに定番のショートケーキ。

 何だか懐かしい気持ちとなって、店内に流れるジャズソングも場の雰囲気と合っており、このまま甘い香りに包まれて寝てしまいたくなる。

 アシェットが言っていた、甘いものの効果とはこう云う事も含まれているのかも知れないと深読みをしてしまうけれど、彼に限って、そこまで考えられているとは到底思えなかったのできっと「暗い気分には甘いもの」という提案はただの思いつきでしかなかったのだろう。

「ええと、注文、良いですか」

「はいどうぞ」

 兎に角目についた、ミルフィーユとミルクレープ、そして手作りプリンを注文する。店員は慣れた手つきで清潔な銀のトレイにケーキを置き、「他にご注文は」と僕に問いかけた。

「何かオススメとかって、ありますか」

 今の腹の空き具合であれば、きっと三つでは足りないだろうと——自分は良く食べる方で、正直六号くらいのケーキでも食べろと云われたら一人で食べれそうではあった——食い意地を張るが、店員にはまさか僕一人が全部食べるだなんて思わないだろうと考えて欲張ってオススメ等と聞いて見る。店員は少し悩んだ聲を漏らした後、「クラシックショコラですかね」と答え、「自分が好きなだけなんですけど」と笑った。

 シンプルで飾り気のない、柔らかそうなケーキを指さされ、下のプレートにはしっかりと〈クラシックショコラ〉とあった。

「甘さも控えめで、食べ易いですよ。ミルフィーユはパイのほろ苦さをカスタードで和らげてまして、ミルクレープも苺の甘みを薄手の生地で包んだ生クリームが引き立ててるから少し口の中がもたついちゃうかも知れませんし、プリンも加えたこの三品の後なら、きっと当店自慢のクラシックショコラの美味しさをご理解いただけると思うんですけど」

「へえ、なるほど……って、なんで僕がこれ全部食べる前提なんですかっ」

「ははは、あれ、違いました?」

 何故バレる。食い意地が張っていると思われただろうか、けれども上手い嘘もつけず、店員の疑問に「間違ってはいませんけど」と答えようとして漸く僕は漸く顔を上げた。

 

「これ、今日オレが焼いたんですよ」

 

 目と目が合って、目の前の店員から目が離せなかった。

 

 営業スマイル、というには少し砕けた様な笑顔が無邪気と形容出来るのにも関わらず、何故か見目麗しいという表現が自然と浮かぶのは彼自身の顔の造形故だろうか。

 店を閉める直前だったのかもしれない。頭には裏方に消えたパティシエが被っていたコック帽子は無く、纏められた髪を見るに、解くとそこそこの長い髪なのだろうと云う事が窺い知れた。

 高い所で結われた団子は髪の艶の強さをよく表していて、ピンで留められた余分な後れ毛がピョンと所々跳ねているのが愛らしく思える。

 長身と云われる自分と背も変わらないくらいの高さで、其れでいて細身と云うか、硬い花軸の様な真っ直ぐとした凛々しさ。

 背筋が伸び、長い手足が彼の纏う黒のコックコートと、腰からかけられた白のエプロンをより一層美しく引き立てていた。

「……あの?」

 綺麗だと、名前も知らない目の前の男性に対して、僕は思わず告げてしまいそうになった。

 男性、きっと、否、絶対に彼は男だ。骨格だって女性とまるで違うし、華奢であろうと肩幅だってそこそこにある。例えるならば男性と女性の、丁度いい所をとった様な。発せられる聲は心地がいい低さで、束ねられた長い髪は男と云う性別であったとしても違和感をまるで覚えない。

 それはきっと、僅かに女性の様な膨らみが見える頬の張りや小さな顔、化粧をした訳でもなさそうなのに、その頬に影を落とす長い睫毛だとか、小さめの口と高い鼻だとか。

 切れ長なのに大きな瞳は、目を合わすと思わずドキリと心臓が跳ねた。

「う、えっあの……じゃ、じゃあ、そのクラシックなんとか、で……」

「ショ、コ、ラ、ですよお客さん」

「ショコラ、あ、はい……ショコラね……」

 覚えてくださいね、なんて。

 可愛らしく微笑まれ——彼の中では適当に笑っただけだろうと思うが——そう云った事に耐性のない僕は瞳をそこら中に右往左往させ、何だか妙な高鳴りに危機感を覚え乍らただただ頷いた。

 相手が男で、逆によかったと云うべきか。これで彼が、彼女だったとしたら自分は先程まで付き合っていた“元彼女”の事など忘れ去って、目の前の麗人に頭がいっぱいになっていたに違いない。

 其れはあまりに人間的に終っていると云うか、男性の時点でこんな風になっているのに女性であったら踏み外すどころか自分から飛び込んでいた。

 僕が昔から素敵だなと思う女性は、容姿こそバラバラであったが、何とも云えぬ強さを秘めた雰囲気を纏った人が好きであった。

 目の前でケーキをトレイに乗せる麗人も、しっかりと地に足がついていると云うか、もの知れぬ強さが確かにあった。

「以上で宜しいですか?」

「あ、は、はい。宜しくお願いします」

 ジッと見ていた事に気付かれただろうか。一人でケーキを三つも食べる上にプリンまで頼み、同性の店員をジッと見つめるなんて不審者丸出しと思われていたらと、そこまで考えて目を逸らして「では箱に詰めますね」とケースの向こうへ麗人が行ったのを確認して、気付けば二人きりとなっていた店内で深く息を吸った。

 会計の金額を告げられ、お釣りも渡された時の麗人の指は骨っぽくて、僅かに触れた体温は冷たかった。指先には切れた様な怪我の痕も見え、彼もまた、ただの店員ではなく時には作る側の人になるのだなと実感。

 こんな近所にケーキ屋が合ったなんて知らなかったし、一見目立ちそうな男性がこの近辺を歩いている所も見た事がなかった。意識していなかっただけだとは思うけれど、こんな調子ではこれからは気になって仕方がないじゃないかと箱にケーキを詰める麗人の背中を見つめた。

 それにしても、本当に綺麗な人だ。

 戀とか、そういうのではなく、整ってるなあと感心すると云うか。麗人の髪が、普通に短ければと想像してみるけれど、それでも目を惹く容姿だとは思う。其れはただ、麗人の顔が自分の好みであるだけなのではと気付いて、相手は男だぞと落ち込む反面、安心もした。

 麗人は僕より年上なのだろうか。少し大人びているし、自分と同世代の友人を——主にアシェットやアグエロン——麗人の隣に並べてみると同じ歳とは考え難い。

 一歳か、二歳程上なのだろうか。となると、それでも二十二歳と云う計算になるのだが。もしかしたら顔が若いだけで既に三十歳を越えているだけかもしれないし、ここまでの落ち着きがあると云う事は子供がいたりなんて。それらも絶対にないとは言い切れなかった。

 ところで彼の名前が完全に自分の中で“麗人”となっているが、男にこの呼び名は宜しくないかもしれない。ならば何と呼べば良いのだろうか、名前を聞くのは——如何なものか。万が一、ゲイだと思われて警戒されてしまってはこの店に来辛くなってしまう。

 ……来辛くなってしまう?

 いや、待ちたまえ。何故自分はまたこの店に再び来る事が決まっているのだ。ケーキを食べ、その味を気に入ってからの事なら分かるが、自分が今気に入っているものは目の前の麗人の容姿であって、ここに来ようとする目的が完全に不純である。

 ケーキを作る職人の気持ちを踏みにじり、目の前の麗人目的で店に来ようとするなんて外道も良い所ではないか——しつこい様ではあるが、しかも相手は男である——でも、ケーキの味を気に入るかもしれないし、いいやきっと、気に入るであろうし、名前を聞いて変な警戒心を持たれてしまっては後の祭りだ。

 此処は慎重に行かねば——何をだ、何を慎重に行くのだと云うのか。自分はこの麗人とお近づきになりたいと思っているのだろうか。いいや、頭を冷やせ。子連れの可能性もある男性とお近づきになって、自分は何を——

「ここからご自宅まではお時間かかりますか?」

 まさか振り返ると思っていなかった背中を、穴が開くくらいに見つめていた自分は「スミマセン!」と思わず聲を上げて後退りをしてしまった。

「……すみま……?」

「えっあ、あの、何も無いです!」

「時間がかかるようでしたら保冷剤いれますけど」

「す、すみません。ここからすぐそこのマンションなので大丈夫、です」

 叱られた子供みたいに、語尾に連れて聲が小さくなって首を横に振ると麗人がクスリと小さく笑った。

 ——綺麗だった。

 恥ずかしさに耳まで熱くなったのが分かる。絶対に不審者だと思われたと、穴があったらそこで暮らしたくなって麗人が再び背を向けた後に手で顔を覆った。

 挙動不審で大食いで、オマケに店員の背中を見つめるなんて気持ち悪い人認定ではないか。これで名前を聞いたりしたら、と考えて絶対に止めておいた方が良いと、自分の頭の中にいる何者かが大きな聲で叫んだ。

 今日は厄日なのかもしれない。彼女にふられ、その直後に自分の好みの顔をした麗人が現れたかと思ったら男。

 神様にもう戀なんてするな、そう云われている様な気がした。

 お待たせしましたとの聲がして、麗人がケーキ箱が入ったビニールを手渡してくれる。此処までの時間、ケーキを注文し手渡されるまでの時間は時計の針の幅を見るとそこまで長い時間ではなかったのが分かったが、自分の感じた時間は途轍も無く長く感じた。

 そして、次にケーキを買いに行くまで、この麗人と会えないのかと思ったが、それでも少しの楽しみが出来た様な気がして。自分も微笑み、「有り難う」と手渡されたビニールを受け取った。

 

「……あの、どうかしたんですか?」

 

 付かぬ事をお聞きしますけれど、と。どうかしたのか、という問いに首を傾げると、まるで僕の心を読みとったかの様に「御来店なさった時に元気がなさそうだったので」と麗人が言って、何か心配する様な表情を浮かべた。確かに、此処に来た時は彼女に云われた言葉や、自分が云ってしまった言葉に色々と思考を巡らしていて、もうあの関係も終わりなのかとしみじみ感じていた時であったから、顔も多少は落ち込んでいたと思う。

「少し、いろいろあって……すみません気を使わせてしまって」

 けれどそんな事、事細かく麗人に話しても困らせるだけだろうし、ややぼかし乍ら自分と同じ所にある目線に緊張しつつ成る可く笑顔で返した。

 麗人は小さく首を横に振って「出過ぎた事を言い過ぎましたね」と言葉と僕を残し、ベルが飾られた店のドアを開くと夜風が吹き抜けて、麗人のうなじに流れる僅かな髪の束を揺らした。

 振り返って、また、麗人は微笑んだ。

 綺麗だとしか思わなかった、彼の幾つかの微笑。でもどうしてか、今浮かべられる微笑みは泣きそうな顔に見えた。

 これは本当に僕に向けた笑顔なのだろうか。店を閉じる直前、滑り込んでケーキを買って行ったただの客に浮かべる営業スマイルとは少し違った。

 

「ここのケーキが、あなたの元気の足しになれば幸せです」

 ——また、お越し下さい。

 

 暗がりに消えてしまいそうだった。僕は暫くそこに立ち尽くして、会釈を返し、小さなケーキ屋を出たのだった。

 

 

 シャッターを閉め、モップで店の床を拭ってからコックコートの首元を緩めた。オーナーは今日は不在で、二人の従業員は先に帰った後の店内は一人の青年しかいなかった。

 休憩室の椅子に腰掛けて、溜め息を吐く。

 目を閉じると浮かぶのは、ついさっき見送った金髪の客。見る限り青年と同じくらいの年頃で、あまり人と並ぶことない彼の目線と客の目先が同じであった事から、きっと身長も変わらない。

 店に来たとき、やや丸められた背筋。青年の、顔をジッと見る動作といい、何か前にもこんな事が合った事を云うまでもなく彼は思い出していた。

 忘れるな、と誰かしらが青年に言い聞かせている。

 ズボンに入れていた携帯から着信音が鳴る。スマートホンに変えるタイミングを完全に失って、高校の頃から変わっていない傷だけのガラパゴス携帯を開くと〈フェドロックさん〉と表示されていた。

 結んでいた髪をほどき、「はい」と電話に出ると聞き慣れたオーナーの声。

 今日は大丈夫だったか、と青年の親代わりでもある男は優しく問いかける。もう二十歳なのだから、そこまで心配する事でもないのにと笑って「先輩がいたから平気だった」、そう返すと「休んで悪かったな」と申し分けなさそうに告げられ、寧ろアンタはたまには休むべきだと考え乍ら気にしないでくれと青年は少し笑った。

『それでな、ユーリ』

 明日は昼からでも大丈夫だ——分かった、と。それから少しだけ話して、気をつけて帰れよの言葉の後に電話を切る。

 括っていた癖がついた髪を撫で、携帯を閉じる。

 携帯にぶら下がった、塗装の剥げたペンギンのキーホルダーを握って、頭に浮かべたのは先程訪れた——。

 

「オレってほんと気持ち悪ぃ」

 

 自嘲の笑みを浮かべて、けれど自分にはこうするしかないと、息苦しさに青年は前髪をぐしゃぐしゃと掻いた。

 

 ユーリと呼ばれた、黒髪の青年は、自分の事が好きではなかった。死ぬ勇気もなかったが、何かに対して償い乍ら生きる事を選んでからは少し息がし易くなった。

 それでも、己に対する嫌悪感は増すばかりで、塞がった多くのピアス穴を再び貫通させたくなる衝動を押さえ込んで自分の腕に爪を立てるのでした。

 何も無いアパートの一室に帰ろう。何をする訳でもなく、身体を丸めてただただ眠ろう。

 今日現れた、自分の中の新たな登場人物の名前も知らない。顔がやけに整って、育ちの良さそうな、優しげな男。自分とは正反対で、でもあの男が自分に興味を示しているのは何となく分かった。

 

 そうして青年は、また少し自分の事が嫌いになった。

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