仲直り

VGGnext  櫂×伊吹

一応Gの櫂伊ですけどいつもの櫂伊に……

いろいろ混ざってると思って下さい。

125話から126話の妄想です。
本編との矛盾が多少ありますが

これは妄想なので気にしないで下さい

 ヨーロッパを拠点とする日本人ファイターの中でも、いま最も注目されていると言っても過言ではないプロファイター・櫂トシキではあるが、彼はその多忙な日々の合間を縫っては頻繁に母国へ帰国していた。
 その理由は単純である。
 日本には、櫂の恋人である青年がいるからであった。
 相手が根無し草だのその日暮らしの日々を送っているのであれば、櫂は有無を言わさず共にフランスへと連れて行っていたことだろう。しかし、櫂の恋人である伊吹コウジはもはやただの会社員ではなく、今となってはヴァンガード普及協会の本部長という座につく正真正銘の若きカリスマであった。
 そうしてプロファイターと組織の役員というカップルとなった現在、都合を合わせるのは不思議と櫂の方になっている。
 とはいえ、ヴァンガードのプロファイターともなれば当然、公式試合の他にもインタビューやコマーシャル撮影といった多くの仕事が舞い込んでくるのが常である。しかし、櫂はそれらの仕事を分刻みのスケジュールに詰め込んでは、嵐のように数日間で片づけてしまうのだった。
 その後は深夜だろうと早朝だろうと、無理にでも時間を作ってはパリから日本へ、マルシェにでも行くような気軽さで飛んでいってしまう。
 その凄まじいスケジュール管理能力の高さには「トキシ・カイが来る現場では時間厳守」という暗黙のルールが現地関係者の間で根付きつつあった。だが実際のところ、少し遅れたくらいで櫂がスタッフたちに文句を言ったことは過去の一度もない。
 櫂がそのようにしてストイックに仕事を切り上げるのは、自分なりの伊吹への誠意なのだ。
 自己満足ともいう。
 自分がどれだけ愛する人のために時間を作れるのかを、もはや楽しんでいるところすらあった。
 一方の伊吹は暗躍していた頃の支部長補佐時代とは違い、本部長ともなれば仕事量は倍どころではなく、以前にも増して自由の利かない日々を送っている。
 国内ならまだしも、渡仏などパリ支部に仕事でもない限り叶わないのが現状だ。
 支部長たちからの擁立もあったとは言え、二十二歳という驚異の若さで異例の本部長就任を果たした伊吹は今や時の人となり、櫂としては心配なところもあるが、ワーカーホリック気味な恋人がそんな毎日を楽しいと言っているのだから、やめさせる義理などあるはずもない。
 伊吹は真面目だが無器用な男で、誠実だが割り切れる櫂とは違い、力の抜きどころをなかなか見つけることが出来ず、一度張った糸を自分で緩めることを苦手とした。
 だから、櫂は伊吹のためにもあえて時間を作る。
 自分が伊吹に会いたいのは前提として、己の存在こそが伊吹を休ませる場所であり、口実でもありたかった。
 櫂はこう見えて、恋人に尽くすことが嫌いじゃない。むしろ好きな方なのだが、普段の櫂の様子からは周囲は想像すらできないでいた。
 もともと身内に限って世話好きな一面もあり、お節介のし甲斐のある伊吹の世話を焼くのはなんともいえない充足感すらある。
 帰国し、空港まで迎えに来てくれた伊吹を見つけ、一目散に抱き締めたい気持ちを抑えながら空港内の駐車場へ向かうまでの時間。手が触れるか触れないか、握るか握らないかの距離で時折互いの指に触れるのが好きだった。
 櫂が帰ってくる時にだけ片づけられる伊吹の部屋でコートも脱がず、玄関先で噛みつくようなキスをして、伊吹がしがみついてきた頃に服の裾へ手を入れると「こら」と小さな声で叱られるのも。
 年齢を重ね立場が変わろうと、櫂は相変わらず伊吹を愛しているし、それは伊吹だって同じ気持ちであることに疑いを持った経験は一度もない。
 時に小さなことで衝突することがあれど、互いを尊重し合うことが出来、時には同じ目線で、背中を預けられるパートナーだった。
 そう、時に小さなことで衝突することがあっても、だ。
「もしかして伊吹さんと喧嘩した?」
 穏和そうでありながら、どこか遠慮のない高い声がスマートフォンから聞こえる。
 櫂は一度口を閉じて、なぜ年々察しが良くなっているのだろうと思いながら眉間に皺だけを寄せた。
「していない」
「嘘だぁ」
 そちらは何時の便に日本に着くのか、という話をアイチとしていた筈であり、櫂は一言も伊吹の名前を出してはいなかったというのに。
 アイチは華奢な身体にはやや重たすぎる、しかしこの国では平均的な大きさのショッピングカートを手慣れたように扱いながら、友達への土産物を見て回っていた。その際に、櫂からの電話をとったのである。
「仲良くしなきゃ。ただでさえすぐ会える距離でもないのに」
 櫂は表情の変化は乏しい。しかし、電話となると声だけに意識が集中するため、普段との違いがよく分かる。子供の頃から櫂の周りをウロチョロしていたアイチには、なんとなくその違いを聞き分けられた。
 そして、不意に櫂の図星を突く。
 二人の仲だ。今さら、遠慮する間柄でもない。
「ちょっとした食い違いがあっただけだ」
 櫂の大きめのため息が聞こえるも、昔であれば開口一番で「お前に関係ない」と突き放されていたことを思うと、ずいぶんと親しくなったなと他人事のようにアイチは感慨深くなる。
「そうなの?」
「あのままだと言い合いになりそうだったからこちらから身を引いた。だから喧嘩じゃない」
 それってもう喧嘩じゃないの、とアイチは櫂の屁理屈に苦笑いをしながら「仕事忙しいと誰でもカリカリしちゃうからね」と適当な相づちを打って、妹が喜びそうなチョコレート菓子を豪快にカートに乗せていく。
 二人が喧嘩しているところを、アイチが初めて見たのはいつだったか。
 あれは数年前。三人で食事にでも行こうという話になって、伊吹が運転を買って出てくれたものの、ナビの案内通りに進む伊吹に対して助手席の櫂が「その道混んでるんじゃないか」だとか、確かそう言うことを言ったのだ。
 それから、それからである。ならばお前が運転しろだの、なんでそんなに怒る必要があるだの、二人が静かにくだらないことで言い合いを始めたのだ。
 挙げ句の果てには伊吹の方から「前に食べに行った時も横からそんなことを言い出した」「そんなに言うならお前が最初から運転すればいいのに」と過去のことを蒸し返し、櫂が「その時も今日も俺が運転すると言ったらお前がいいと言ったんだろう」と悪気なく正論で返すと言う地獄のエンドレス。
 アイチは犬も食わない痴話喧嘩に、父と母の喧嘩を止める子の如く「喧嘩しないで」と後部座席から青い顔で二人の仲裁に入ったのであった。
 伊吹も本来は優しい人で、義理堅く、そしてなにより愛情深いというのがアイチから見た伊吹コウジだ。
 そんな伊吹があんな風に攻撃的になるのは気の知れた身内に限られている。少なくとも、アイチにはそんな一面を伊吹は見せない。そして、そんな伊吹を目の当たりにするたびにアイチにとってはむしろ、伊吹が櫂に甘えているようにしか思えなかった。
 だが、それをわざわざアイチが櫂に言わないのは、櫂なら既に分かっているだろうと察しているからでもある。
 そうでもなければ、こうも何年も連れ添っていないだろう。
 全ては想像でしかないけれど。
「あ、ねぇ、櫂くんそんなことより」
「そんなことより?」
 お前が話を振ったんだろうと相変わらずどこか人とは違う独特のテンポで生きているアイチに振り回されつつも、もはやアイチの扱いに慣れてしまった櫂はいつものことかと遠い目になるだけ。
「伊吹さんのお土産なんだけど、伊吹さん甘いの好きかな? しょっぱい方が好き?」
「まぁ、お前からもらったらなんでも喜ぶと思うが」
 伊吹はアイチのことを気に入っている。
 伊吹の性格上、アイチのあまりガツガツしていない人柄や、やや天然なところがあるが穏和で物腰の柔らかい部分なども、おそらく一緒にいて気疲れしないのだろう。
 アイチは櫂の言葉に「嬉しいけど困るよ~」と可愛らしくコロコロ笑い、櫂もその声を聞いて自然と微笑みながら、自身も一応買ってはいる伊吹への土産が入った紙袋に視線を送った。
 確かに、アイチが言うように伊吹もカリカリしているのだ。そこから生じる八つ当たりこそが、伊吹なりの甘えであることも、周りに言われなくとももちろん分かっている。
 原因が、仕事の忙しさだけではないことも。
 最近見るという不穏な夢の内容、そして鬼丸カズミたちのこと──その全てが伊吹を追い込んでいることも、理解している。
 櫂はその不安すらも全て受け止める覚悟があるのだ。
 けれど、売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、櫂も思わず口走ってしまった部分もある。もちろん、伊吹を傷つけるような暴言や、説教じみたことは言っていない。それは伊吹も同じで、櫂に向かって罵声を浴びせるような真似は一度だってしておらず、無神経な言葉で振り回してもいなかった。
 本当に小さなトゲが互いに刺さってしまった、それだけのこと。
 これ以上は喧嘩になるからやめようと、櫂がため息をついた。これが、おそらく伊吹の地雷を踏んだのも櫂はわかっている。
 その証拠に、伊吹は一瞬黙って、わかった、と言って向こうから電話を切ったものの、それ以降は業務メールのようなものだけを送ってくるだけで、櫂からの電話には出てくれなくなってしまった。
 よくある、いつもの喧嘩だ。
 くだらない小競り合いだった。
「櫂くん」
 細い首の筒から奏でられる、高く澄んだ声でアイチが歌うように話す。ときどき、弟分であり友人でもあるこの不思議な青年を、櫂は詩人のようだと思うのだった。
「伊吹さんもきっと、櫂くんと同じように寂しいよ」
「……どうだかな」
「きっとそうさ」
 アイチの言っていることは、よくわからない時がある。それでも、喧嘩することは寂しいことだからと、アイチがしょうがない大人たちを宥めるように笑った。
 櫂はニューヘイブンの空に覗き穴でもあるんじゃあないかと考え、つられて笑う。
 そうだな、と静かにうなずいた。
 櫂は、たとえ下らなくとも、伊吹と喧嘩をして、悲しくて寂しいのだった。
 それだけが、おおよそ本当のことだった。
「ねぇ櫂くん、七色のチーズピザとかあるけど、伊吹さん喜ぶ?」
「ああ。頼むからそれだけはやめておいてやれ」
「ええ、どうして? 綺麗なのに」

 帰国後、アイチに「喧嘩しちゃダメだよ」と念を押されつつも、櫂は自らの愛車で普及協会本部に乗り込んでいた。
 一年前の支部襲撃事件からと言うもの、各支部と本部の警備体勢はいっそう厳重なものとなっており、たとえ相手が櫂トシキであっても通行書がない限りはオフィスフロアの受付すら通してもらえなくなっていた。このビルそのものが機密情報の山なのだから、それくらいはして当然のことなのだが。
 念のため車は近くのコインパーキングに駐車し、ビル内へ足を踏み入れ、櫂は目についた職員に声をかける。
 声をかけられた職員は本部に勤めるだけあって、相手がプロファイターであろうと一般人のように顔色を変えることはない。おそらく、彼らからすれば見慣れた光景の一つにすぎないのだろう。
「悪い。伊吹本部長を迎えにきた。急なことで通行書がないから本人に確認とってもらえるか」
 櫂はここで、伊吹に「そんな約束していない」とでも言われて摘み出されたら笑い話にでもしようと考えつつ、一か八かで当たってみる。
 櫂の申し出に「かしこまりました」と職員がうなずき、数分にもわたって席を外したかと思えば、顔色を変えないままロボットのように戻ってくる。こりゃダメだったか、と櫂が肩をすくめようとしたが、返ってきた言葉は意外なものであった。
「確認が取れました。四二階、オフィスフロアまでどうぞ。本部長室までは係の者が案内いたします。オフィスフロアに向かう際には身分証のご提示と手荷物検査のご協力をお願いいたします」
「……どうも」
 お姫様はどうやら通してくれたらしい。
 櫂は大人しく身分証を提示し、手荷物検査を受けた後、案外すんなりとオフィスフロアに入り込むことができた。
 案内係の後を歩きつつ、伊吹が就任してからも一度か二度しか訪れていないオフィス内は相変らず静かで、神聖な場所に足を踏み入れたような、そんな緊張感すら櫂にもたらす。いつしか伊吹が「お前のカードキーも発行してもらったほうがいいとは思っているんだが」と話してくれたことを思い出していた。
 いつも、自分のために受付で足止めを食らっては手間だろうと。
 けれど、伊吹もあれからもずっと仕事が忙しいのか、過去に一度話しただけで、それ以降はカードキーに関する話は持ち上がっていなかった。
 エレベーターに乗って、長い廊下を進んだのち。一際大きな扉が目に入り、そこが本部長の執務室であることを知っている櫂は案内係の職員に頭を下げ、そこから先は一人で向かい、たどり着いたドアの前にたたずむ。
 一言目はなんと言おう。
 久しぶり、あの時は悪かった、迎えにきたぞ。そんな言葉を脳内で並べて、櫂はどうしたものかと頭を掻きながら来客用のカードキーを認証システムのホログラムにかざす。すると一瞬で、かざされたカードキーは溶けるようにホログラムの中へと吸い込まれて消えていくのが見えた。
 その魔法のような技術は、かつてギアースに使用されていたデッキ認証システムを民間用に転用したものである。
 ギアースが解体された後も、編み出されたいくつかの技術は確かに社会に根付き、貢献し、継承されている。普及協会本部とは、まさしくその建物自体がファイターを支える技術者たちと、研究員たちの英知の結晶のように思えた。
 こんな組織を現在率いる者の一人が伊吹コウジなのかと思うと、櫂は今も現実味がない。
 伊吹が抱える多くの責任と、伸し掛かる重圧がどれほどのものなのかを、今一度考えるのであった。
『──本部長、お客様です』
 執務室に流れるのは無機質な合成音。空間上に浮かび上がるのは、廊下のそこかしこにあるらしいカメラが鮮明に映す扉の前にいる櫂の姿であった。それは内部のセキュリティAIに繋がっており、映像の他にも櫂の氏名、ファイカ廃止後に定められた個人のファイターズグレードなどの簡略化された個人情報が表示されている。
 執務室の扉は伊吹本人の声紋による許可が降りない限りは、部外者を通すことのない重い壁のまま。伊吹は気怠げにレザー調の椅子に腰掛け、あらゆる方向から映し出された櫂の映像を眺めた。
 伊吹は小さくため息をつき、普通ここまでやってくるかと呆れたような声で「通せ」とだけ告げ、システムに小細工を施すと本部の管制室に直結している執務室前の防犯カメラを操作しては、背もたれへと埋もれる。執務室内の防音設備は整ってはいるが、念には念を入れるのが心配性の伊吹コウジならでは。
 これで、万が一にでも痴話喧嘩が廊下に漏れたとしても他人に聞かれる可能性はないだろう。
 カシャン、と音がして扉が開いた。
 扉の前に立っていた櫂を前にし、伊吹は口を開く。
「迎えなんて頼んでいないが」
 けれども櫂は、その言葉に答えるそぶりもなく。
 自前の長い足で一直線に伊吹の方へと向かっていき、何も言わず、顔色を伺うこともない。
 そんな態度を伊吹は無視をしているのかと腹立たしく思い、櫂の方を睨みつける。
「おい、聞いて」
 いるのか、と。
 その言葉が、最後まで言えなかったのは──座っている伊吹を、櫂が無言のまま抱き寄せたからであった。
 強い、男の力で。突然のことで思わず呆気にとられ、伊吹も目を見開いて黙ってしまう。話し合いに来たのではなかったのか。
 無言の執務室。
 少し、櫂の汗の匂いがした。空調の整ったビル内なのにどうしてだろうと、伊吹は他の思考を手放して、そんな呑気な疑問が頭をよぎる。
 ──ドアが開いた瞬間。櫂には、そこにいた伊吹の相変らず青白い顔が、余計に白く見えた。
 思わず抱き締めた体はまた少し痩せたのか、伊吹の骨が当たっている。
 思えば、伊吹が会うたびに痩せていくのが、櫂は怖かった。
 伊吹の部屋の小さな冷蔵庫には、いつも飲みかけのミネラルウォーターだけが転がっている。だから帰国するたび、櫂は己の不安を埋めるように、その小さな冷蔵庫を無理やりにでも食材で埋めてしまうのだった。
 ほとんど同じ背丈だ。手の大きさも、足の大きさも。性別だって、こんなところまで同じだった。似た者同士だと言われ、口数の少なさまで似なくていいと共通の知人から笑われたこともある。
 同じだった。
 それなのに、伊吹だけがどんどん小さくなっていくようで。それなのに、彼の背負うものだけがどんどん大きくなっていって。肩書きと組織と、伊吹の言う己のなすべきことに彼が埋もれて、いつしか潰れてしまうのではないかと、櫂は次第にそんなことを考えるようになった。
 電話口で綴られる、不安定な伊吹の声を櫂は聞きたくなかったのだ。
 いますぐにでも日本に行けたなら、手が届く距離ならば、大丈夫だと言いながら手を繋げるのに、どうしようもない遠い海の向こうで伊吹が必死に隠そうとする不安の存在を感じるたび、なにをやっても気休めにしかならないこの遠く離れた異国の地で、櫂は己の無力さを思い知るしかなかったのである。
 支えると言っておきながら己が不安に駆られたくなくて、だからと言って喧嘩らしいことをする気力もない。たとえ一瞬でも、頼むから、黙って欲しいと櫂は思ってしまった。その本音が伊吹に伝わってしまったという、今回はただそれだけのことだった。
 ドラゴンエンパイア支部の襲撃後から、櫂はたった数日の滞在期間であっても帰国することが増えた。伊吹が「どうしたんだ」なんて不思議そうに言うのを、櫂は「なんとなく」と言うだけ。
 あの事件の後、伊吹は櫂個人に連絡をよこさなかった。事件を知ったのは後のカムイからの連絡で、その時に初めて伊吹が重傷だということも、この時に知った。
 両親が亡くなった時も、同じように、櫂は全て後から叔父に聞かされたことを思い出し、ようやく連絡の取れた気まずそうな伊吹の声に自分はなんと言ったのかすらも朧げだった。
 フランスに来ないか、なんて言えたらいいのにと思うことがある。日本にいる限り、伊吹がこの多くのものを背負わなければならないのなら、フランスのなにもない辺鄙な田舎で、農業でもして暮らそうかと、そんな馬鹿らしい妄想ばかりしてしまう。
 どうして伊吹なのだろう。
 こんな役回り、櫂には関係のない、名前も知らないどうでもいい人間がやればよかったのに。
 喧嘩をすることは寂しいことだから、と笑ったアイチにも同じようなことを櫂は感じたことがある。
 失いたくない。失うかもしれない、そう思うことすら怖い。伊吹にかける「大丈夫」の言葉が、いつしか自分を言い聞かせるための言葉になっていったのはいつからだったか。
 伊吹の肩を抱きしめた。痩せた体が軋んで、伊吹が少し強張る。
 ここ最近、不安定だったのは、伊吹の方ではなく自分だったのかもしれないと櫂は考えながら伊吹の髪に顔を埋めた。
「……会いたかった」
 そんな風に呟いた櫂の声が、あまりにか細かったから。
 伊吹の戦意は完全に喪失し、ああ、また絆されていると自覚しながらも、櫂の髪に手を伸ばして無意識のうちに頭を撫でていた。
 でかい子供がいる。そんな気持ちにすらなる。
「……あのとき、嫌な言い方をして悪かった」
「い、いや……オレも、その。大人気のない態度をとった。……すまん」
 伊吹にも櫂に八つ当たりをしていた自覚はあって、あの後の態度は悪かったとは思っていた。けれど一度張った意地の取り消し方を、伊吹はよく知らない。自分が一方的に悪いのであればすんなり謝れただろうけれど、互いに原因がある時の仲直りの仕方はあまりわからないのだった。
 互いの謝罪が済んだあとも、櫂は相変らず伊吹を抱きしめている。伊吹も最初こそ大人しくしていたが、少しずつ小っ恥ずかしくなり、櫂の胸をグイと押した。
「先導も帰ってきてるんだろ? 葛木やクロノも待たせてる」
 ほら、早く行こうと誘うように声をかけると、櫂は少し体を離して至近距離で伊吹を見つめる。まるで捨てられた子犬──否、やはりでかい。訂正する。それはでかい犬のようであった。
「まだ怒っているのか」
「も、もう怒ってない。しつこいぞ」
「怒ってるだろう」
 怒ってないと言っている、と伊吹が声を荒げようとしたが、櫂がそのまま伊吹の小さな顎を掴んで口付けたため、伊吹の声は虚しくも互いの唇の間に消えていく。
 唇が触れ、話している途中で半開きとなっていた伊吹の口腔には櫂の厚みのある舌がしれっと入りこみ、奥で縮こまっていた舌にちゅっと吸いつくと同時に漏れる吐息が熱くなるのが分かった。
 再び体を抱き寄せられる。密着し、頭も押さえつけられ、逃してもらえない状況にされてしまうと、伊吹はずるずると背もたれを伝って体の力が抜けていった。
 櫂はキスの間も目を開けたまま、伊吹の蕩けた表情を見下ろして、冗談などではなく本当にこのまま腕の中に閉じ込めておいてやろうかなんて、安っぽい口説き文句のようなことを真剣に考えてみる。
 すると櫂にしがみつき、自らも櫂の舌に絡ませるように舌を伸ばし始めた伊吹にたまらない気持ちになって、普段は恋人が仕事をしているこの部屋で、櫂はいっそう熱く甘い粘膜を味わった。
 互いの唾液が混じり、鼻息が荒くなる。伊吹の少し薄い唇を吸いながら、耳の縁を撫でると「あ」と伊吹の声が漏れた。伊吹の白い顎に唾液が伝って汚れるが、その表情すらも淫らで愛しい。
「か、い……こら……っ」
 シャツの裾に手を滑らせると、伊吹が身をよじって悪い手首を掴む。このままだと流されたまま、何をされるか分からないと察したのだろう。
 深いキスによる酸欠で、伊吹は舌足らずに「だめ」と短く言うと首を横に振った。それでも櫂は伊吹の潤んだ目を見つめたまま、白く薄い脇腹を撫でる。少しカサついた硬い櫂の手のひらで、やや骨が浮きかけてしまっている薄い腹部の皮膚を撫でられると、伊吹の二の腕にはゾワゾワと鳥肌が立ち、たったそれだけのことで容易く性感を拾い上げてしまう。
「伊吹」
 耳元で、低く甘ったるい声で名前を呼ばれ、脳にも響くその音に伊吹はギュッと目を瞑った。
「好きだ」
「っあ……」
 櫂の短い言葉に、体が、心が、脳が悦んでいるのがわかる。
 きゅっと胸が苦しくて、目の前がフワフワして、落ち着かない。
 櫂は「伊吹、好きだ」と幾度となく繰り返しながら、頬や瞼に唇を落としていく。脇腹を撫でていた手は、いつしかシャツを捲り上げて胸元を撫でている有様で、伊吹は両足の太腿をすり合わせながら、体の奥が物足りなさそうに疼いていることに気づいた。
「櫂……待て、だめ……」
「……なんで?」
 指の腹で控えめに膨らみつつある乳首を撫でられると、伊吹は喉が乾くような感覚に陥り、両腕で自分の赤い顔を覆って首を横に振った。
「……セックス、したくなる……」
 ダメだ、と。消えそうな声で、伊吹は懇願した。櫂が、足りなくなってしまう。この後、クロノたちにも会わなければならないのに、そんなことも忘れて櫂を求めてしまいそうで、伊吹は自分のはしたなさを恥じた。
 そんな伊吹を前に櫂は少々やりすぎたなと思いつつ、機嫌取りのつもりが思わず欲望のまま伊吹を味わってしまっていたことを、表情も崩さぬまま反省したような、そうでもないような。ただ、自分に溺れそうになっている伊吹を見るのは、気分が良かった。
 櫂も正直なところ、このままなし崩しで“そう言う”意味の仲直りをしたい気持ちは山々だったのだが、おそらくこのままだと一度では済まない。
 男子高校生二名と、己の可愛い可愛い弟分を放置して、それはあまりにも人としてどうかと言う話である。
 櫂は伊吹の顔を覆う腕をどかせて、溶けた赤い瞳を見つめた。
 すると伊吹が腕を伸ばして首に抱きつき、自らも櫂の唇にキスをする。
「……もう怒ってないから。また、夜話そう」
 ごめん、と伊吹は櫂の頭を再び撫でた。
 会いたかったと伊吹に告げた、先ほどの櫂の声があまりに悲しげなものであったから。
 櫂は伊吹に頭を撫でられるのを心地よく思いながら、目を瞑って目の前の細い体を、今度は優しく抱きしめる。
「今晩」
「ん?」
「お前に家に入れてもらえなかった場合の状況を考慮して、ホテルをとっていた」
 いつもは伊吹のマンションに泊まるのが常であったのだが、今回に至っては帰国前になかなか重めの喧嘩をしたこともあり、櫂は念のため都内のホテルを取ったのだと伊吹に話す。
 櫂の目には、自分が家にも入れてくれないほど怒り狂っているように見えていたのかと申し訳なく思いながら、「じゃあ今日はそっちで寝るか?」と櫂の都合を伺った。二人の時間が過ごせないのは残念だが、これも自業自得だろう。当日と言うこともあってキャンセルしろとも言えず、伊吹はあくまでも寂しさを表に出さないように平然を装った。
「ああ。荷物も送っているから」
「そうか、わかった」
 こんなことなら、電話にくらい出ればよかった。
 櫂がせっかく帰ってきているのに、変な意地を張ったばかりに一緒にすら過ごせない。というか、櫂は伊吹と離れようと別に平気だと言うのだろうか。寂しいのは自分だけで、やはり今も櫂を思っているのは自分ばかりで──などとネガティブな思考回路で伊吹は落ち込みそうになるのを、なんとかすぐそこにある櫂の体温に引っ付くことで落ち着かせる。
 どこのホテルなのかと問えば国内でも有数の高級ホテルで、伊吹はまたもや金銭感覚の違いに少し遠い目になる。
 一人で泊まるのに、いや、もしくは誰か連れ込む予定でもあるのか。プロファイターともなればやっぱり違うな、なんてまた可愛げのないことを言いそうになって、伊吹はそんな自分が嫌になった。
「いいホテルだな。ま、一人でゆっくり羽を伸ばして……」
「一人? 何を言っている。お前もくるんだろう」
「……は?」
 伊吹は固まって、櫂の方を見る。視線を向けられた櫂は至って真剣な眼差しで、首を傾げていた。
「お、お前さっき、オレに家に入れてもらえなかった場合の状況を考慮してホテル取ったって言ってただろ」
「ああ。だから、お前に拒まれた時に、お前を連れ込むためのホテルをとったんだ」
 今、なにか恐ろしい発想を聞いたような気がするが、気のせいだろうか。やや顔が青くなった伊吹をよそに、櫂は淡々と話す。
「最近、旅行にも行けていないからな。だから広くていい部屋を取った。俺よりも伊吹こそゆっくり羽を伸ばすといい。たとえ仕事で呼び出しがあってもあのホテルなら俺が車て送ってやれる」
 櫂はそこまで言い切ると、呆然としているのか、唖然としているのか、そのどちらでもある伊吹の手を取り、その白い甲に己の唇を重ねて笑いかけた。
「……二人で過ごそう」
 キザを通り越してもはや自然である。いや、櫂の自然体がこれなのを、伊吹はすでに知っているのだが。なにが問題かと言えば、櫂のこの言動に、他でもない自分が一番ときめいてしまっていることが伊吹にとっては大問題であった。
 ひとまずは呼吸を整える。スーハー、と深く息を吸って吐いてから、そっぽを向いて心拍数を平常値に戻した。いま、直視は危うい。
「……構わないが」
 耳まで赤い伊吹が頷いたのを見て、櫂は嬉しそうに、なにより美しく笑った。
 喧嘩は、寂しい。
 やはり、櫂は今日も伊吹を愛している。

「──寄り道は終わりだ。行くぞ」
 伊吹とクロノのファイトが無事に終わり、櫂はそれを見届けると先に車のエンジンをかけるために踵を返した。そのすぐ後ろをアイチが続く。
「……仲直りした?」
 頭が一つ分ほど違う背丈の、丸い目が櫂を見て楽しそうに笑った。
 小声の問いに、櫂がフッと笑って「なんのことだか」と白を切ると、アイチは「よかったよかった」と愉快そうにうなずく。
 アイチなりにも、櫂と伊吹が遅くなるだろうと見越していたため、カムイたちと食事をしたり、クロノをファイトに誘ったりと結構気を使ったのであった。
 何はともあれ、仲直りができたのならよかったとアイチは上機嫌になる。
 離れ離れよりも、仲良しの方がずっといいことなのだから。
「なにか食いたいものでもあるか?」
 そして、そのアイチの気遣いをなんとなく察しているのが櫂である。
 アイチは櫂を見上げて、「そうだなあ」と少し考え、大きな青い目を櫂に向けた。
「カムイくんが前に話してた、ニシベーカリーのコロッケパンとか?」
 それはカムイ曰く、店頭に並ぶとたちまち売り切れになると言われる伝説のコロッケパンである。
 櫂が車の鍵を開けながら「努力する」と告げると、後方で伊吹がキャピタルから出てくるのが見えた。
「あ、ねえねえ伊吹さん。ニシベーカリーのコロッケパンって食べたことあります?」
「ん? ああ、何度か差し入れで。なかなか美味いぞ」
 そんな、他愛もない会話をする二人を見つめながら、滞在中にアイチとその妹と母親の分、そして伊吹と自分の分でも買っていくかと櫂はぼんやり考えながら車に乗り込み、一息をついてからエンジンをかける。
 するといつものように助手席に乗り込む伊吹の横顔を一瞬、満足げに盗み見てから、櫂は静かに車を出した。
 夜、ホテルに着いたら、伊吹への土産も忘れずに渡そうと考えながら。

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