忠告

​刀剣乱舞 鶴丸国永

​鶴丸が審神者に忠告する話 切断注意

 夜を背にした男の白さは際立ち、月光に照らされた肌が青白く光る。
 呆然と、ただただ影を見ていた。審神者の私室、障子に貼られた和紙に描かれた赤の斑点と鼻腔を這う湿った香りは、虚脱し、時折痙攣する肉叢のものだと理解した直後、白の男は口をニイと横に開けて歯を見せた。その笑みが気味の悪い事、一瞬、空気が漏れるような音がして、それが少しずつ大きな音になる。生きた空もないような鼓膜を震わす耳障りな振動が、男の張り裂けるような笑い声だと気付いた時には既に身体は一寸も動かなかった。
 腹の中のものを吐き出すように散々声を上げたあと、捲れた唇の端に唾液が溜まっているのが見えた。暫くするとスウと息を吸い、男、鶴丸国永は刀から滴る血を羽織の端で拭うと鞘に収め、ギョロリと眼球だけを審神者の方へ向けた。
 瞳はすぐに細められる。愛らしい微笑みのあと、部屋の中心で広がり続ける血溜まりにも気に留めず、耳障りな水音を鳴らしながら踏み歩き、審神者の前に腰を下ろした。

「また忘れちまったのかい」

 コテンと首を傾げ、顔を覗き込まれる。豊かな睫毛に縁取られた瞳は甘やかで、状況も理解できなまま固まっている審神者の顔を見、鶴丸国永は幼子が歌うような調子で無邪気に問うた。
 鶴丸国永はこの本丸に置いて古株の主力であった。
 掴み所がなく、存外淡白な性格だと感じる場面も多々あったが、決して薄情な男ではなかった。優しいとはまた違う、一歩引いて的確に物を言う堂々とした態度は不慣れな審神者を時に咎め、時に褒めてもくれた。無関心なようで隅々に至る場所にまで視界を張り巡らせている、そんな鶴丸国永に審神者が抱く信頼は大きかったのだ。

 だから、この時。なにが起きたのか、人の子には分からなかった。

 刀と審神者の夜伽は特に禁じられてはいなかった。
 この閉鎖された箱庭の中で自然とそうなる者も全体の半数に満たずとも少なからず存在していたし、政府も神と人の戯れを表では容認していなかったが厳重に規制することは一切なく、要するに黙認していたのだ。
 それはここでも例外ではなく、秘め事として行われていたこと。とある一振りの刀と審神者はいつしか夜を共にするようになった。
 最初は些細なことが切っ掛けであったと思う。それがだんだんと気づかない内に、忍び寄るように、傷を舐め合うような目合いは形を変えてゆき、行為の途中で刀の口から恋慕を匂わせる言葉を聞くようにさえなっていった。
 悪い気はしなかった。
 ただの所有物に過ぎない刀剣らに慕われることを厭う審神者を大勢見てきたが、いざ、自分がその立場に立つと嫌悪感などはなく、応えることこそ出来なかったが言葉を聞き入れることだけは出来た。否、それしか、出来なかったのだ。だが、刀もそれで満足していたように見える。
 所詮は“ごっこ”だったのだ。少なくとも、審神者はそう思っていた。
 だのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
 いつもと同時刻、部屋に訪れた例の刀を快く招き入れた。その日あったこと、楽しかったことや夕餉が美味しかったことなどを相好を崩して笑いながら話す表情に釣られて笑い、穏やかな時間を過ごしていた。
 すると話していた口が突然キュっと結ばれ、どうしたのかと首を傾げると刀が云うたのだ。

 審神者である自身を手放し、なくすのが、怖いと。

 白い額に描かれた細く美しい眉が少しずつ顰められていくのが見えた瞬間にはもう、皮膚の向こうで灯火が点き、薄紅を帯びる頰が濡らされていくのはあっという間で、嗚咽を漏らし乍ら刀は審神者の肩に凭れた。
 当然訪れる最期を語れるのは、この子が刀だからだろうか。
 普段の凛々しい背から想像も出来ないような弱々しい姿に喉が震えた。嘘はつけない、何処にも行かないなどと伝えてやれない代わりに、慰めとして手を伸ばしたのだ。
 刀剣に必要以上好かれることを厭う他の審神者たちの気持ちを知れた気がした。
 残される側の立場、奪う立場で存在し続けた者に抱かれる好意というのは思っていた以上に残酷で、悽愴なものだった。受け入れることは容易くても、一時の主人でしかない審神者が、彼らを兵器として扱うための制御装置でしかない我々が、救うことも愛すことも出来るはずがないのだ。資格も、当然。
 己と目の前にいる刀との、大きな相違とは何かを初めて理解した。
 審神者は苦しみから喉が詰まるのを感じ、震える肩を抱こうとする。

 けれどそれは叶わなかった。
 涙を流す目の前の刀の腹がずれ、そのまま、雪崩れる様にゴロリと転がった。

 風が吹き、灯篭の火が不自然に消えると同時に白い神が姿を現す。表情は見えない、ただ彼が、同胞を斬ったのだということだけを赤の斑点が物語っていた。
 死と欲に翻弄された美しき神が微笑んでいる。
 ただただ、美しかった。畏怖を抱くほどに。
 審神者は呼吸を忘れ、白き神を、鶴丸国永を瞳に映すのがやっとであった。

 ジトリと脂汗が額を覆い、覗き込んでくる黄金の瞳から目が離せない。このまま、目を逸らしてしまえば気がどうにかしてしまいそうだったのだ。
 恐怖で身じろぐこともできない。全身の血が逆流しているような、無音の中で内側から叩く己の心音に黙れ黙れと叫びだしそうになるのを必死に耐えながら、忘れていたことを思い出す。
 自分が、何を従え、何と共に暮らしているのか。
 総身は冷水をかけられたように冷えていった。

「我々は日々この肉の器に差し出された飴をしゃぶっているに過ぎない」

 白は唐突に口を開く。
 審神者の口から「ひ」と間の抜けた声が出て、鶴丸国永は困った顔で主を見つめた。

「なあ主殿。この肉の器は痛みも快楽も死も与えてくれるけれど、本来失うものは何もないんだ」

 手を開いたり閉じたりした後、先ほど斬り殺した同胞から溢れ出た血を、畳の上から鶴丸国永は徐に撫で付ける。
 赤く濡れる生暖かなそれはぐちゃりと不愉快な音を立てるが、鶴丸国永がもう一度拳を作り、次に開いたとき。手のひらにはもう赤がなかった。
 すると同時に、畳をしとどに濡らし、咽せ返るような生臭さを発していた赤が嘘のように消えていく。
 尸が、つい先ほどまで言葉を発していた“彼”が。呼吸をし、体温があり、涙を流していた塊が、だ。鉄の錆びのような、薄焦げた黒い粉体と変わり、夜風に攫われ部屋を舞った。
 部屋には、自分と鶴丸国永だけとなる。

「ここでの生活は、元から零だったものが恰も一を与えられたかのように、色んなものに騙されながら存在しているように錯覚させられているだけだ。君は草葉の陰の世界を知っているかい、土の中の冷たさを知っているかい? この生活に、肉の器に騙されそうになる度、服の裾を引っ張るのは白くなる前の俺だ。傍らで主人が土へと還ろうとするのを眺めながら過ごした時の、俺だ」
 まるで「俺は騙されない」と言い切っている様にも聞こえる。
 鶴丸国永は話しながら審神者の目の前に腰を下ろす。表情から感情は読み取れない。ただ、思い出話をするかのように、柔らかな口調で、しかし時折呆れた物言いを含めながらも鶴丸国永は語り続けた。
 先程までの挙動が嘘であったように、鶴丸国永は一瞬にして“いつも通りの彼”に戻った。瞼の裏に焼き付いて離れない、あの瞬間が何か悪い冗談だったのではないかと、都合のいい考えが自然と鼓動を鎮めていく。
 鶴丸国永は瞬きをすることもなく、終始審神者と目を合わせていた。
「だからと言って、俺はここでの生活が嫌いなわけじゃあない。ただ、恐ろしいよ。自分が惨めで仕方がなくなる。例え失っても代わりがいる……ここにいる俺は一体誰なんだろうと漠然とした疑問を抱えながら毎日を過ごすんだ。そして皆、いつしかここに存在する刀は自分がいた印を求める様になる。その印の掃き溜めが、君だ。俺たちにとって唯一無二の、主である君だ」

 そして、最後は、どこか悲しげであった。

「肉の器に騙された道具たちをどうか憐れんでくれ。刀が君に求めるものは、愛だとかそんな可愛らしいものじゃないんだ。誰しもが君を羨んでいる。肉の器に唆され、代わりのいない自分の証を君に求めている。そんなの、どこにもないのにな」
 満月のような瞳はいつになく曇っている。悵然としているというよりは、自分が惨めで、どうしようもないと嫌忌していると言った方が正しいように思えた。
 そして自分にも振るわれると思っていた刀は、物言わず鶴丸国永の腰から垂れているだけ。どうして自分には罰を与えないのか、それが余計に気味が悪く、未だ鼻息は荒い。
 鶴丸国永の唇は未だ動いているが審神者はそれの殆どを聞き取れはしなかった。凍るような恐怖の後、あとはもう、児子のように逃げ出したい気持ちに駆られているだけ。
「主殿」
 自分が恐怖を抱く目の前の其れは、透明で雪白の、人間離れした美しい艶を帯びた薄い肌を覗かせている。加えて高雅な目鼻立ちは誰しもが息を呑む程の端正さで、正に白皙の美貌と称するに相応しい。
 彼はいつまでも、その美貌を怒りに歪めることはない。
 それが、理解できなかった。彼の話す態度は淡々としており、言うなれば、飽いたような。
「俺たち刀は、本来失うものがないからこそ主人の隣に寄り添えるものなんだ。君が俺たちに何を施してくれようと、語りかけてくれようと満たされる事は何一つない。他は忘れても、これだけは覚えていて欲しい。死の隣にいるという事は常に孤独であることを意味する。そうでなければならない、そうでないと刀は戦場に立つ資格を失う」
 鶴丸国永の表情が、色を変えた。
 そして何も写さなかった鶴丸の瞳に、
「失う事の恐れを知った時からそいつは刀じゃあなくなっちまう。ただの、鉄屑以下だ」
 初めて、怯える自分が見えたのだ。
——初めて?
『ちがう、違うんだ。待ってくれ、話を聞いてくれ』

――否。

『俺は、ああ、なんてことを』
『けれどこのまま君が食い殺されるのを見捨てては置けなかった。すまない、すまない、俺は』

——これは、初めてではない。
 審神者は、この顔——瞳に映る愚人——を見たのは初めてではなかった。
 震えていた肩が嘘のように静まる。同時に、恐怖よりも鶴丸国永への言い表すことのできない罪悪感に蝕まれていく。
 また、その顔をさせてしまったと。また、彼に、仲間を——“また”?
「主殿」
 鶴丸国永は見計らった様に、呆然としていた審神者に声をかける。
 その後ゆっくりと立ち上がり、審神者の私室から廊下へと続く戸を開けた。夜空に浮かぶ月が、また彼を白く照らす。

「君があいつを殺したんだ。俺はいま、忠告したぞ」

 彼はそう言い残した後、部屋を後にした。
 直後、審神者はガクンと身体中の力が抜け、前に突っ伏す形で崩れる。次に目を開けた瞬間、審神者は後頭部を掻きながら首を傾げ、呟いた。

 


 何故こんなところで、寝ているのだろう、と。

 


 人は罪を忘れる。
 その都度白き神は、鶴丸国永は、忠告していた。

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